第五章 クレアトゥール 3
三
なにが起こったのか、わからない。
手に伝わったのは、鈍い感触。
特別なそれではない。
ただの人間の首を突き刺した、それだけの感触だ。
「あなたは、最初から、愚かだったわ」
ナイフは、彼女の首に突き刺さっていた。
血を流し、それでも笑みを浮かべていた。
もしかしたら、どこかで、期待したのかもしれない。彼女が避けるだろうと。はじかれるだろうと。殺すことは、できないのだろうと。
しかし、現実の感触は、たしかにフェーヴの手にあった。
儚い笑みが、記憶のなかの彼女と、重なる。しかし、そうではないはずだった。彼女は、あのときの彼女とはちがうはずだ。彼女にはもう、演じる必要がないのだから。
──本当に?
胸のなかに、疑問が生まれる。
この女は、いったい、だれなのだろう。
首から血を流し、まるで無力な人間のように、命の灯を消そうとしている、この女は。
女神ではない。
少なくとも、女神とあがめられるなにかでは、なかった。
「あなたはあまりにも愚かだったから──私はたぶん、本当に、幸せだった」
フェーヴに襲いかかってきたはずの光は、ひどくあたたかかった。歪んでなどいない。ぬくもりに満ち、フェーヴを慈しむ。
フェーヴは気づいた。
もしかしたら、これこそが、彼女の望みだったのではないだろうか。
彼女の思うままに、こうして自分は、彼女を殺しているのではないだろうか。
「フェーヴ」
呼びかける。いつかと変わらない、優しい声で。
「泣かないで」
小さなつぶやきが、最後だった。
彼女は力なく、イスに体重を預ける。
そのまま、動かなくなった。
「クレア」
それでは、あんまりだという気がした。
避けられたことではなかったはずだ。それでも、こんなものなのだろうか。
フェーヴは、思い出していた。なぜ自分がここにいるのかを。翼堕ちを帝都の周辺に集めたのも、フェーヴを襲わせたのも、クレアの意志だったのならば──それはフェーヴを遠ざけるためだったのか、それとも。
結果として、フェーヴはここにいる。
ここでこうして、彼女の結末を前にしている。
「クレア」
しかし、返事はない。そんなことはわかっていた。
フェーヴは口を閉ざす。悔やむ資格すら、おそらく、自分にはないのだ。
「マスターを殺せるのは、アンファンだけだった」
いつのまにか近づいてきていたスピラーリが、つぶやく。クレアの手を持ち上げ、その甲に唇を落とした。
「そう、プログラムされていた。……どういうつもりだったかは、知らないけどね」
「俺、だけが」
フェーヴは、ナイフから手を離した。
気の遠くなるほどのときを生きた女神の最期は、あまりにもあっけなかった。もしそれが、どこかで彼女が願っていたことだとして──本当に、これで、良かったのだろうか。ほかになにか、なかったのだろうか。
それはきっと、だれにもわからないことだった。
真実など、あってないようなものなのだ。未来へ続く正しい道となれば、なおさら。
「終わった、のでしょうか」
ショコラが、クレアに歩み寄る。瞳を伏せ、それからそっと、フェーヴの手に触れた。まるで守るように。
終わった、という言葉に、フェーヴは疑問を覚える。
終わったのだとして、いったいなにが。
「クレアのいっていたシステムが停止したとして……その場合、世界はどうなる? メトルたちはもとに戻るかもしれないが、アンファンの力でひとつになっていた国は、もしかしたら──その効力を失っているのかもしれない」
フェーヴがいうと、ショコラは初めてその可能性に気づいたとばかりに、顔を上げた。
「そうです、きっと。じゃあ……」
考え込むように、再びうつむいてしまう。フェーヴには、かける言葉がない。正しかったのか、正しくなかったのかもわからない。人間ではない作り物である自分たちが、このまま世界のまねごとを続けてもいいものだろうか。
ショコラは、拳を握りしめた。
「じゃあ、忙しくなりますね」
その言葉に、思わず目を見開いた。
彼女は、まるで絶望していなかった。
おそらくは、正しいかどうかということすら、考えないのだろう。彼女はいっていた、それでも精一杯生きているのだと。それが、すべてなのだ。
「だいじょうぶだよ、二人とも。絶望的になることはない」
薄く笑ってそういって、スピラーリは首のループタイに手をかけた。引き抜いて、それを傍らの机に置く。クレアの隣に。まるで、もう必要ないとばかりに。
「たぶん、君たちの世界はまちがいだらけだ。フェーヴ君と同じぶんだけ見てきて、僕は何度も呆れたし、絶望もした。それでも──」
まっすぐに、フェーヴと、ショコラを見る。それはいままで見たどの表情よりも彼らしく、かついままでとはちがった笑顔だった。
「──なかなか、捨てたもんじゃない」
「知ってます、そんなこと」
「そうだな」
それでいい、という気になった。なにより、ショコラという少女と行動をともにするようになって、フェーヴは思い知っていた。
大切なのは、あらかじめ決められたなにかではないのだ。
フェーヴは、コートを脱いだ。それを、優しくクレアの肩にかける。
動くことのない、愛しかったひとの頬に、触れた。まだぬくもりを残す感触にも、もう心が揺らぐことはなかった。
愛していたのは、うそではない。
それは決して、忘れるべきことではない。
小さく、彼女への言葉をつぶやいて、それを最後に背を向ける。
クレアのいた建物は、境界からほど近い場所にあった。彼女のいた世界がどれほどの大きさなのか、フェーヴは見たいとは思わなかった。もう、生きた人間のいない世界だ。女神も、死んだ。
境界を消すこともできるとスピラーリはいったが、二人はそれを断った。いつか、そうする日が来るのだとして、それはまだいまではないという気がした。
そうして、来たときと同じように、境界の向こう側へと足を踏み入れる。衝撃は、やはり彼らを襲った。世界が回る。まぶたの裏に映る、あまりにも美しい世界。
それはきっと、女神の願いだ。
ひとりの女の、純粋な願い。
ならばそれに、応えなければならない。
*
境界の向こう側は、なにも変わっていなかった。
何事もなかったように、サンドリユの砂漠が待っていた。四足獣も、おとなしくすわっている。従順に、同じ場所で待機していたようだ。
世界が、町が、いったいどうなっているのか、まだわからない。それを、確かめなければならなかった。しかし、どのようになっていたとしても、今後の道が穏やかではないことは、容易に想像できた。
「ところで、フェーヴ=ヴィーヴィル」
境界を越えてすぐ、ショコラがいった。どこか怒っているように見える。頬を膨らまし、こちらをにらみ上げた。
「……なんだよ」
良い予感はしなかった。警戒心を露わにそう返すと、スピラーリが楽しそうに笑って、フェーヴの背中を押す。
「しっかり聞いておきなよ、フェーヴ君。女の子は大事にしなくちゃね」
「おまえ、なにかいったな」
「真実を、ちょっと詳しく教えはしたけど」
いったいいつそんな暇があったのだろう。あるとすれば、クレアのもとへと現れる前だ。そんな状況ではなかったはずだが、ショコラがなにか尋ねたのだろうか。
「あなたの失恋については、言及しません」
失恋ときたか──フェーヴは頭を抱える。いったいどう伝えたらそういう話になるのだろう。かつての恋は、悲恋ではあったかもしれないが、失恋といわれるとなにかがちがう気がする。
言葉も出ないフェーヴの様子を意にも介さず、ショコラは凛とした声で続けた。
「そしてわたしは、自分の考えを、断固曲げません」
なにもいっていないのに、そんな宣言をされる。どう答えたものかと逡巡し、結局、フェーヴはうなずくことしかできない。ああ、とまぬけな返事。
「ですが、わたしを愛してくださいとは、もういわないことにしました」
「……は?」
まさか、そうくるとは思っていなかった。目を丸くするフェーヴの横で、スピラーリが肩を震わせる。
ショコラは、あっけにとられるフェーヴに、飛びついた。
そして、こともあろうか、その唇に自らのものを押しつける。ほんの一瞬のできごとだ。フェーヴは驚くことすらできず、目を見開いた。
「な……っ」
「わたしは、あなたを、愛しています。それでじゅうぶんです。ずっとずっと、あなたの隣で、生きていたいです」
そうして、まるで花が咲くように、彼女は笑った。
フェーヴは納得した。
ずっと、疑問に思っていたのだ。そういうことなら、うなずける。小さな笑みが漏れた。
ショコラが不思議そうな顔をして、それから唇をとがらせる。
「どうしましたか?」
正直に答えたものか、フェーヴは一瞬迷った。しかし結局、思ったままに、告げた。
「やっと、わかったよ」
「……なにがですか」
ショコラは不満そうだ。自らの決意の言葉を、軽くあしらわれたとでも思っているのだろうか。
フェーヴは彼女の頭を撫でると、笑った。
「不思議だったんだ。なんであんたは、死なないのかってな」
意味がわからないとばかりに、ショコラが目をまたたかせる。フェーヴは笑いを押し殺して、彼女の背中を押した。
「──忙しく、なるんだろう?」
そう、促す。彼女は帝国の姫君だ。帝都へと戻れば問題が山積みだろうが、そこで立ち止まってはいられないはずだった。
終わりではない。
これから、始まるのだ。
「フェーヴ君や、僕もいる。まあ、なんとかなるさ」
飄々といって、スピラーリが肩をすくめる。
ずっと向こうに、サンドリユの町が見えた。フェーヴは、空を見上げる。夕暮れが訪れようとしている、空。その次には夜が来て、そうして朝が来るのだと、知っている。
ずっと見てきた空だ。
それが、与えられたものであろうとも。
「帰ろう」
手を差し伸べる。
「はい」
ショコラが、その手を握りしめた。
了
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読んでいただき、ありがとうございました。心からお礼申し上げます。
少しでも良いものが書けるよう、精進致します。