裕紀



 



「わたしがいけなかったの」
 裕紀はまるで映画のワンシーンでも見るかのように、奇妙に冷静に、母親を見ていた。
「わたしが、あなたを、そんなふうに育ててしまったのよね」
 母親は涙を流していた。裕紀の記憶のなかで、彼女はいつも泣いていた。泣いていない母親の姿を思い出すことなど、不可能と思われた。
「ごめんね、ごめんね……」
 謝罪の言葉をくり返しながら、彼女はただ、涙を流した。
 小さな小さな母親を前に、ひどくぼんやりと、裕紀はつぶやいていた。
「つまりわたしは、できそこないということよね、お母さん」

 裕紀が十六歳の誕生日を迎えるよりも早く、母親は死んだ。
 自殺だった。家のリビングで首を吊った。
「それが、自分の責任だと?」
 革製の黒いイスに腰をかけた白衣の男性が、柔らかく、問いを投げる。
 裕紀は小さく唇の端を上げた。肯定とも、否定ともとれる。
 白い部屋には、彼と裕紀の二人きりだ。狭い室内に飾り気は一切なく、窓際にデスクと本棚、中央に黒いソファの応接セットがあるのみだった。いまはそこに、向き合って座っている。
 答えが得られないので、彼は続けた。
「君が、当時イジメを受けていたことは、お母さんのせいじゃない。そう、だれのせいでもないんだ……そうだろう?」
「だれのせいでもない?」
 くり返して、裕紀は今度ははっきりと笑った。
「先生、本気でそんなことを?」
 裕紀は長い黒髪を耳にかけるような仕草をし、大きな瞳で彼を見た。
「虐められる側に非があるに決まっているでしょう。だれもそんなこといわないけど、もちろんあのころ、わたしに虐められる原因があったの。当たり前のことだわ」
 裕紀は毛先を人差し指に巻きつけながら、くすくすと笑みをこぼした。
「でも先生は立場上、そんなこといえないですよね。だってね、ひとから嫌われる要素をひとつも持っていないような人間なんて、いるわけがないと思いません? そういう意味じゃ、だれだって、虐められて非がないなんていえないの。完璧な人間なんて、いやしないんだから」
 急に饒舌になった裕紀に、彼──先生と呼ばれた白衣の男性は、少しだけ眉を顰めたものの、口を挟むようなことはしなかった。こうなると、裕紀はよく喋るのだ。彼はそれを止めるべきではない。
「勘違いしないでくださいね、イジメって最低なことです。ただ、虐められる側は何も悪くない、みたいなこと、テレビなんかでよくいってるでしょ。ああいうキレイゴトは嫌いなの。だってね、この広い世の中で、だれかに嫌われるのは当たり前だもの。同じように、だれかは自分を認めてくれる。そのことに、自分で気づくことが出来るかどうかなのよ、結局」
「そうだね」
 それは肯定ではなく、そういう考え方もあるという意味の言葉だ。裕紀もそれは承知していた。だから、続けた。
「父が浮気して家を出たことも、母が病んで首を吊ったこともね、あの人たちが弱かったのも本当だし、わたしに原因の一端があるのも本当。今更そんなこと、わかりきってるんです」
「……でもそれでは少し、君がかわいそうだ。自分を責めることなどないのに」
「だから」
 裕紀は苛立たしげに、剣呑な目つきで彼を見た。
「わたしはかわいそうじゃないし、自分を責めてもいない」
 彼はじっと、裕紀を見た。なんて強い眼差しだろう。しかしそれだけに、ひどく脆いものにも思われた。
 絶対だと、信じている者の目だ。それ以外をすべて容認しているようで、その実、頑なに自分自身に固執している者の目だ。
「先生……わたしね、幸せなんです。自分が不幸だなんて思ったこと、いままでだって一度もなかったけど、いま本当に、幸せなんです」
 裕紀はかみしめるように、そう告げた。その表情は、驚くほど穏やかだった。
「だから、もう心配してくださらなくても、大丈夫です」
 柔らかな笑みを向けられ、彼はかすかに目を伏せた。裕紀が最初にここを訪れたのは、十歳のときだ。両親の離婚騒動の折りに、母親に連れられて来た。
 あのころから、何も変わらない、真っ直ぐな瞳。
「いまならわかるんです……母は、わたしを、愛してくれていたんです」
 そっと腹部を撫で、夢見るようにうっとりと、裕紀は微笑んだ。

 妊娠しているのだと気づいたときには、ひどい吐き気に襲われた。
 恐ろしかった。
 子を宿している。自分のなかに、命がある──
 到底、育てることなどできる気がしなかった。
 望んでいない。愛せない。愛せるわけがない。
産科へ初めて訪れた、あの日──泣きながら、堕胎を訴えた。
 しかし、産科の医師は奇妙に笑った。中絶は受け入れられず、月日は過ぎていった。
 月日の流れは残酷だった。それは裕紀に、変化をもたらした。
 あれほど嫌悪していたのに、気づけば腹部に手を当てているのだ。生む気などなかったのに、どうしようもなく、愛しくなっていたのだ。
 この子は、自分がいなければ、何もできない──
 それが、愛しいことのように思われた。
 愛しくて、気がつけば、愛していた。
 きっと、母親とはそういうものなのだと、裕紀は思った。

「いまでは待ち遠しいんです。……わかりますか? だから、母も、父も、わたしを愛していなかったわけがないんです。だってこんなにかわいくて、愛しいんだもの。少し、ほんの少し、何かがおかしくなっちゃっただけで、愛されていたんだと、思うことにしたんです」
 裕紀は、ゆっくりと立ち上がった。
「心配してくださっているから、ここにも通い続けていたけど、もう来ません、先生。長い間、ありがとうございました」
 深々と頭を下げ、裕紀は部屋から出て行った。
 彼には、引き止めることが出来なかった。結局ここに来るかどうかは、患者の意志に頼るしかないのだから。
「失礼します」
 入れ替わるように、白衣の女性が現れた。
「いま、裕紀くんとすれ違いました。いいんですか? もう来ないって、さようならをいわれましたけど」
「うん」
 白衣の男性は天井を仰ぎ、大きく息を吐き出した。
「彼はまた来るよ、きっと」
 ふと、考えた。愛しても愛しても、生まれるはずのない我が子を憂いて、裕紀は絶望するのだろうか。
 彼は首を左右に振った。
 きっと、理由を見つけて、自らをなだめすかして、裕紀という一人の男性は、いつまでも幸せであり続けるのだろう。
「なんだろうね、幸せって」
 白衣の女性は笑った。
「思い込むことですよ」












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昔に書いたものを発掘。こういうの書くの好きです。