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トイレ攻防戦



 

「ママ、トイレ」
 ──きた!
 ケンタ母は戦慄した。今日は、今日こそはありませんようにとあれだけ願ったのに、やはり発せられたトイレ宣言。
 発したのは息子のケンタ、幼稚園たんぼ組在籍の三歳。
 トイレを我慢できないお年頃だ。
「ケンちゃん、すぐ帰って、それからにしようよ。ね?」
 無駄と知りつつ、一応は諭してみる。幼稚園に通い始めて一ヶ月、ここは分団帰宅の解散場所、コンビニ脇の小スペースだ。コンビニが隣にあるというのはあくまで偶然であって、幼稚園児が帰りにトイレを借りるためにわざわざこの場所にしているというわけでは、もちろんない。
「ミミも、トイレ行きたい」
 スカートを抑えて、ミミもいう。彼女ははたけ組在籍で、やはり三歳だ。そうなれば、同じ組であり、しかも一緒に「せんせいさようなら、みなさんさようなら」をしたもう一人、ホノカも黙っていない。
「ホノちゃんも、おしっこ」
 しかもこちらはもう少し具体的だった。大きい方でないぶん、良かったというべきかもしれない。
 ケンタ母とミミ母とホノカ母は、それぞれ顔を見合わせた。
 そのへんでしなさい、といいたいがそれはできない。オシャレママの選択として、それはない。
 我慢しなさいといっても、それが不可能であることは経験上よくわかっている。
 三人は、コンビニを見た。
 昼夜問わず看板が眩しい、子どもたちの救世主、コンビニエンスストア。
「借りるしか、ないわね」
 ミミ母がつぶやいた。
「そうね、借りるしかないわね……今日も」
 ホノカ母がうなずく。実のところ、幼稚園の分団帰宅が始まってからというもの、ほぼ毎日借りている。
「じゃあ今日は、私の番ね。任せて。貫いてみせるわ、ノーユーズ作戦!」
 ケンタ母が拳を握りしめた。

   *

「いらっしゃいませー」
 昼食を買いに来る客もいなくなり、やっと一息つける昼下がり。店長タツゾウは、開いたドアの方向にあいさつをする。
 ──きた!
 そして、戦慄した。
 平日のこの時刻、ほぼ必ずやってくる、園児三人組とその母三分の一。
「トイレ貸してください」
 母三分の一は、にっこり笑ってそういった。トイレは店の奥。店員も使うが、もちろん客に貸し出す目的もあり、掃除だって毎日ぬかりなくやっている。
 貸してくれといわれて、断る理由はもちろんない。タツゾウは微笑んで、
「どうぞ」
 手のひらを上にして、トイレの位置を示した。
 三人のチビッコがトイレを利用するとなれば、それなりに時間もかかる。タツゾウは棚の整理をしながら、彼らが出てくるのを待った。
 そうして、数分後。
 三人を引き連れて、母三分の一がさきほどよりも一層にこやかに、
「ありがとうございました」
 礼を告げて会釈した。
 そうして、そのまま、そそくさと、店から出て行った。
「──うう!」
 タツゾウはなんともやるせない気持ちを抱え、休憩室の戸を押し開けた。中ではパートのミサエが、おにぎりを食べていた。昼休憩中だ。
 ミサエは昼食をとりながらも、休憩室に設置されたモニターで、一部始終を見ていたようだった。にやりと笑って、タツゾウを見る。
「またやられましたね、店長」
 そう、「また」だった。
 幼稚園児ズは、ほぼ毎日トイレを借り、そして毎日なにも買わずに出て行くのだ。
 四月の最初の数回は、それでもペットボトルやパンや、子ども用の菓子など、多少の買い物をしてくれていた。しかし、さすがに毎日となると買うものもなくなったのか、いまではまったく買い物をする気配がない。
 コンビニに入り、雑誌の横を真っ直ぐ進んでトイレを使い、そのまま戻って店から出て行く。もう、コンビニをトイレと認識しているとしか思えなかった。
「悔しいよ、ミサエちゃん。おれは悔しい。いいんだ、トイレを貸すのはいいんだ。トイレを借りたらなにか買わなきゃいけないっていう決まりがあるわけでもない。──でも悔しいんだよ! 人間は、ああやって毎日トイレを借りて、そしてなにも買わないで出て行けるものなのか? 心が痛まないのか?」
「わたしは平気なタイプですかねー。別になんか買えとも思わないですし。そんなに嫌なら、清掃中の札かけとけばいいんじゃないですか。貸すのを断るとか。貸すのはいいけどなんか買えってズバリいうとか」
「そういうことじゃないんだよ!」
 タツゾウは力説した。
 買って欲しいわけではない。いや本音をいえば買って欲しかったが、それは売り上げがどうの、ということでは決してなかった。
 気持ちの問題だ。
 心の問題だ。
 モラルとかマナーとか、そういう部分の問題だ。
「おれだったら、茶ぐらい買う!」
 宣言する。あたしだったら買いませんけど、とミサエはクールだ。
「なんとかならないかね、ミサエちゃん。おれ、最近あの子たちを夢に見るんだ。夢のなかじゃ、いきなりおれの家に入ってきて、トイレだけ使って帰っていくんだ。もう限界なんだよ」
「あ、いいこと思いつきましたよ、店長」
 ミサエはおにぎりのラップをくるくる丸めながら、真顔でいった。
「トイレットペーパーを有料にすればいいんですよ」
「……だから、そういうことじゃないんだよ!」

   *

「成功したわ、ノーユーズ作戦」
 ケンタ母は額に滲んだ汗を拭った。ミミ母とホノカ母は、深くうなずく。
「よくやったわ」
「でもなんか、ちょっともうしわけないけど」
「私、そろそろ慣れてきたわよ。最初は緊張したけど、もう大丈夫。別に文句もいわれないし」
 ケンタ母は己のレベルアップを感じていた。子を産む前は、店でトイレを借りてなにも買わずに出るなど考えられなかったが、慣れてくるものだ。
「あたし、元々平気かな。昔からよくやってるもん」
「わたしはちょっと……トイレとか借りなくても、お店に入ってなにも買わないのって、苦手。店の人の目を気にしちゃうっていうか」
 胸を張っているミミ母とは対照的に、ホノカ母は肩をすぼめる。しかし、コンビニのトイレを借りる際、子どもたちを連れて行くのは平等に当番制だ。苦手とはいえ、明日はやらねばならない。
「しようがないわよね、漏らしちゃったら大変だし。お高い制服、汚すわけにはいかないわ」
「それはそうよね。──コラ、ミミ! そんなところにすわらない!」
 ミミ母は注意するが、ミミが改める様子はない。子ども三人が集まって、小スペースで飛び跳ねたり走り回ったり。母たちも帰りたいという気持ちがあったが、だれともなく雑談が始まり、なかなか「そろそろ帰りましょう」の一言がいえない。
 そんなこんなで、いつのまにか小一時間。
 もじもじとスカートを抑えて、ホノカがホノカ母のズボンにすがった。
「ママ、うんち」
 ホノカ母は顔色を変えた。

   *

「いらっしゃいませー」
 レジに立っていたミサエは、現れた客に首をかしげた。
 園児だ。
 さっき──というより一時間ほど前に、来たはずだ。
 今度は、園児一人に親一人。
 店の奥でタバコの整理をしていたタツゾウも、客に気づいた。いらっしゃいませ、と事務的に声を出し、様子をうかがう。
「あのう、すみません、トイレお借りします」
 母三分の一──ママと呼ばれているので、連れている園児の母親なのだろう──がもうしわけなさそうにいう。どうぞー、とミサエは快くうなずいて、それからタツゾウに視線を移す。
 奥から出てきたタツゾウは、棚の陰からじっと客を見ていた。鬼気迫る勢いだ。目が血走っていて、通報されかねない。
「店長、そんななら、やっぱりいったほうがいいですよ。ガツンと一発。店長の安眠のためにも」
 そっと近づいて、ミサエはいった。タツゾウは頑として首を縦に振らないが、しかしよほど思い詰めているのだろう、顔色が悪い。
 ほどなくして、園児と母親が、出てきた。ミサエは心に決めていた。このままではよろしくない。タツゾウのことを心配する気持ちももちろんあったが、毎日愚痴を聞かされるのはあまり喜ばしいことではないのだ。
「お客様」
 やわらかく声をかける。そそくさと出口に向かっていた母親が、びくりと肩を震わせる。
「あ、な、なんでしょう?」
 どうやらこの母親は、ほか二人よりは良識がありそうだ──ミサエはそう判断して、タツゾウの手を引いた。
「店長が、ちょっと」
「えええ? お、おれ?」
 タツゾウは情けない声をあげ、母親の前に立つ。オロオロと丸まった背中を、ミサエは叩いた。そんなことだから奥さんにも頭が上がらないのだと、むしろこちらがガツンといってやりたい。
 母親が息を飲むのがわかる。タツゾウもまた、意を決したのか、背筋を伸ばした。
「あの」
 しかし、声を発したのは、そのどちらでもなかった。
 母親の手をつかんでいた園児が、タツゾウに向かって、ぺこりと頭を下げたのだ。
「おじさん、いつもトイレを貸してくれて、ありがとうございます。みんなみんな、カンシャしてます」
「────!」
 一瞬で、タツゾウの目が涙で潤んだ。
「ホノカ……」
 母親は娘の言動に驚いているようで、言葉を失っている。少なくともいわせた言葉ではないらしい。
「まあ、お嬢ちゃん、おりこうねえ」
 ミサエは心からそういって、通園帽子の上から頭を撫でてやる。園児は照れたように笑った。
「えへへ。だって、借りたのはホノちゃんだから、ホノちゃんがありがとうするの」
「い、いいんだよ、いいんだよ。トイレだって使ってもらってナンボなんだからね。また来てね。幼稚園は、楽しいかい?」
「うん、とっても楽しいよ!」
 タツゾウはあっさりとほだされたようだった。ミサエは肩をすくめて、レジの奥に引っ込む。たしか休憩室にあめ玉があったはずだ。それをあげようと思うほどには、園児は愛らしく、そして悩める店長に果たした功績も大きい。
「ねえ、ママ、ホノちゃんねえ、お菓子欲しいな。みんなで食べるから、いいでしょ?」
 さらに喜ぶべきことに、園児は母親に三十円の菓子をねだった。たかが三十円、しかしコンビニ側にとってはされど三十円だ。さすがにそれを断ることはせず、母親はなんともいえない笑みを浮かべながら菓子を買い、急いで帰ろうとする。ミサエは結局、園児のてのひらにあめ玉を三つ握らせた。
「また来てね、お嬢ちゃん」
「うん、ありがとう!」
 タツゾウはほとんど号泣で、園児に手を振っていた。
「ありがとうございましたー!」
 なんとも清々しい声だ。彼はきっと、今夜こそぐっすり眠れるだろう。

   *

「買っちゃったわ……」
 ホノカ母はぐったりと肩を落として、小スペースに戻ってきた。ミミ母が目を丸くする。
「うそ。なんかいわれたの?」
「あ、ううん。それがね……」
 ホノカ母は、すぐにともだちの元へ駆け寄っていった娘を目で追いながら、コンビニで起こった一部始終を報告する。ミミ母とケンタ母は、なるほどねえ、とうなずいた。
「偉いわねえ、ホノカちゃん。それでおねだりするお菓子が三十円っていうのが、またかわいいわ」
「子どもたちもわかってるのかもね。これからは、それこそ安いお菓子とか……そうじゃなくても、牛乳とかそういう必要なもの、少しでも買おうかしらね」
 そうして三人の母たちは、仲良くあめ玉をほおばる三人の子どもたちを見て、ほほえみあった。


   *


「成功したわよ。しかも、キャンディ三つゲット。ちょろいわ」
 ホノカが声をひそめる。
「すっげえな! また来ていいっていわれたんだろ? おまえすっげえな!」
「ケンタくん、うるさい」
 ケンタが大げさに声をあげて、ミミがその頭をはたく。それからちらりと母親たちを見て、唇の端を上げた。
「やっぱり、ホノカちゃんとホノカちゃんのママ二人っていうのが、大きかったわよね。あそこのトイレ使えなくなったら困っちゃうもん。関係が良好になって良かったわ。次は、あたしもやらなくちゃ」
「今回のことで、ママたちも考えを改めたんじゃないかしら。次からはきっと余裕よ」
 ホノカもにやりと笑う。ケンタは瞳をきらきらと輝かせ、身を乗り出した。
「じゃあ次はさ、もっといいもの買ってもらおうぜ! そんでみんなで食べようぜ! おれジュースも飲みたい!」
「ばかね、それじゃだめなのよ。百円が限度だわ」
「もっと頭使いなさいよね」
 口々にいわれるが、ケンタはめげるどころかさらにきらきら度を増していく。
「おまえら、すっげーな!」
「──そろそろ帰るわよー」
 母たちの呼び声が聞こえ、子どもたちは顔を見合わせた。
「やっとお呼びだわ。今日は長かったわね」
「毎日毎日おしゃべりして、飽きないのかしら」 
 ため息をついて、制服についた砂を払い、皺を直す。それぞれ通園カバンを背負うと、目配せをした。それから無邪気に声をあげ、走り出す。
「はあい、ママ!」













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コンビニにまつわるSSということで。
読み返すとなんだか心がちょっと痛みます。もっと純粋であって欲しい。