タマネギの花



 

 
 ──そうねえ、じゃあ、お願いを聞いてくれるかしら?


 彼女の「お願い」の数々を、哲也は半分も覚えていない。
 それは、ちょっと消しゴムを貸してちょうだいというような些細なことから、いますぐ空を飛んで見せろなどという無理難題まで、多岐にわたっていた。
 願いを叶えようと奮闘するのは、彼女に恋い焦がれる三人の男達。みちひこ、アキラ、そして哲也。
 仲良し三人組がこぞって自分に交際を申し込んできたのが、おもしろくて仕方なかったのだろう。彼女は毎日のように、様々なお願いをしては、彼らの反応を楽しんでいた。
 マドンナのハートを射止めたのは、哲也だ。
 あなたに決めたわ──そんなセリフで、交際が始まった。
 大学を卒業し、二年後には結婚。
 二人の娘に恵まれ、三十五歳で夢のマイホームを購入。
 マドンナとの結婚生活は、順風満帆かつ、幸せに満ち満ちていた。
 ように、思われた。


「もういやだ。もうウンザリだ。オレは反旗を翻す」
 哲也は中ジョッキを力任せにテーブルに置いた。口への一往復でカラになったジョッキは、泡の線だけを薄く残している。生中ひとつと、頼んでもいないのにアキラが声を張り上げる。
「おいおい、七年ぶりにノロケを聞こうと思ったのによ。マドンナとうまくいってないのかよ」
 黒縁眼鏡のみちひこが、枝豆をつまみながらいう。哲也はすぐに口を開いたが、出てきたのはゲップだった。失礼、と一言告げる。
「オレとは……三年ぶりぐらいか? あんときも、ぐちぐちいってたよなあ、てっちゃん。マドンナがどんどん丸くでかくなっていく、化粧もしないし外出もしない……だったか?」
 アキラの言葉に、みちひこは目を輝かせた。
「え、なんだよなんだよ。前会ったときは、まだ現役で綺麗なマドンナだっただろうよ。この七年で何があったって? え?」
 明らかに楽しんでいる。少しは労ってくれという思いもあったが、それよりも気持ちをぶちまけてしまいたいという思いのほうが勝った。哲也は鼻を鳴らす。
「マドンナっつっても、もう四十も後半だからな。そりゃあ、変わるだろうよ。オレだって変わったよ。腹が出てきたよ。おまえらだって出世して給料増えて、嫁さんもらって家買って、そんで腹が出てきただろ」
 かつての仲良し三人組は、いまはそれぞれ違う土地に暮らしている。奈良、岡山、岐阜。三人が揃って会うのは、実に七年ぶりのことだ。
 岡山に住むみちひこが出張で岐阜に訪れ、そのついでで実現した会合だった。奈良のアキラももちろん暇なわけではなく、今夜一晩居酒屋で語り合う、たったそれだけの再会だ。
 みちひことアキラは、恐らくマドンナに会いたがっているのだろう。未だ恋い焦がれているとか、隙を見て一夜のあやまちをとか、そういうことではもちろんない。ただ、旧友に会いたいという、純粋な思いだ。
 そんなことはわかりきっていたが、それでも哲也は、あえて駅前の居酒屋を指定した。
 マイホームに招くこと自体はいい。
 娘たちに会わせることも、やぶさかではない。
 問題なのは、かつてのマドンナだ。
「昔はな、ちょっと娘を幼稚園バスに乗せるのにも、オシャレしてぱりっと化粧して、マドンナとしての威厳ここにありって感じだったさ。でももう、最近じゃ、近所の買い物程度じゃ寝間着みたいな格好で行くわ、化粧どころか髪も適当だわ、腹は出てるわ……」
「腹はお互い様なんだろ」
 じっと哲也のビール腹を見据えて、アキラが余計なことをいう。哲也は咳払いをした。
「お互い様なら我慢するけどな。イーブンを超えてる。オレはもう、我慢ならん」
「写真とかないのかよ」
 相変わらず、少女のように瞳を輝かせたみちひこが、身を乗り出してくる。哲也は携帯電話を取りだした。
 先日、娘が送ってきたメールに、妻の写真が添付されていたはずだ。といっても、この雑誌を買ってこいというただの指定メールで、居間でくつろぐ妻の姿がうっかり写り込んでいるだけなのだが。
「後悔するなよ」
 画像を開いて、手渡す。
 みちひこは眼鏡をかけ直してそれを受け取り、隣のアキラも画面をのぞき込んだ。
「…………」
「…………」
 二人とも、黙った。
 沈黙がすべてを物語っていた。
「悪かった」
 そっと、携帯電話が返される。
「やめろ、謝るな」
 哲也はいっそ泣きたくなった。罵られたほうがまだましというものだ。
「いや……そうか……そうだよな、オレらがオジサンなんだから、マドンナだってオバサンだよなあ」
 気まずいのか、メニュー表を手にしながら、アキラがぽつりという。
「でもほら、テレビなんかでさ、すごく綺麗な四十、五十の女出てくるだろ。オレ勝手に、マドンナはいまでもそうなんだと思ってたよ。やっぱ現実は、現実だよな……」
「いや」
 みちひこの言葉を、哲也はあえて否定した。世の中そんなものだという結論にしてしまいたくはなかった。
「同世代のお母さんたちとかな、職場にも同じぐらいのとかいるけど、違うぞ。ちゃんとしてるのはちゃんとしてる。あいつは完全に、気が抜けてるんだよ」
「まあ、そうかもなあ。──あ、すみません、このモッチチーズモッチと、玉子ベッドの熟睡小魚、あとカルパッチョ風和の刺身盛り合わせください」
 アキラがしんみりとうなずく。いかにも親身になっているふうだが、すぐさま注文を繰り出したのでは、どの程度真剣に聞いているのか怪しいものだ。
「おまえ、それはさあ、ガツンというべきだよ」
 みちひこがさらに中ジョッキを追加して、真剣な目でいった。
「ガツンと、か」
「オレもそう思うな。マドンナのお願い攻撃、覚えてるだろ? あのころおまえ、あんだけ頑張ったんだからさ、次はマドンナに頑張らせる番だよ」
 アキラも続ける。哲也は唸った。
 なるほど、考えてみれば、出会ってからいままで、一方的に奉仕してばかりだ。主導権を完全に握られている。向こうは主婦で、家庭の平和を守ってきたかもしれないが、こっちは社会の荒波で戦う大黒柱だ。
「そうだな、ガツンとな。うん、よし、そうだな」
 不思議な力がみなぎってきた。一般的にいう酔いというやつだったが、哲也はそれをパワーだと認識した。いまなら勝てる。
 仕事帰りにそのままきたので、鞄には手帳とペンが入っている。哲也はそれを取り出すと、皿とジョッキを避けて、テーブルに広げた。
「よし。じゃあ、まず、なんていおう」
「おまえ、そこは自分で考えるところだろ」
 みちひこが呆れたように嘆く。しかしアキラは協力的だった。
「一人の女性として、それでいいのか! だな」
「お、おお、いきなりそれか」
「なんだ、もっと遠回しにいきたいのか?」
 逆に問い返され、言葉に詰まる。そうだ、いきなりだとかいっている場合ではない。コンセプトはガツンだ。
「じゃあ、こういうのはどうだ」
 みちひこも乗ってきた。
「オレとの結婚生活を続けたいのなら、お願いを聞いてくれるかしら!」
 当時のマドンナの口調をまねている。意外なことによく似ていて、哲也は思わず笑ってしまった。
「それは、いってみたい気もするな」
「まず思い出させるのはどうだ。マドンナはどうせ、おまえが当時どれだけつくしたかも忘れてるんだろ。涙ぐましかったもんなあ。空を飛べといわれて窓から飛び降りたりな」
 目頭を押さえたアキラに、哲也は眉根を寄せてしまう。
 そんなことをしただろうか。
 いや、した、かもしれない。
 それだけ一直線に、愛していたのだ。
「それなら、あれだろ。マドンナのハートを射止めた、奇跡の花事件」
「あー、あったなあ」
 いつの間にか哲也そっちのけで、アキラとみちひこが思い出話に花を咲かせていた。
 当の哲也は、話に加わろうにも、乗り遅れてしまう。
 奇跡の花事件といわれても、覚えがない。
 いちいち覚えていられないぐらい、マドンナのお願いは膨大だったのだ。
「あれがきっかけで、オレらのマドンナは、哲也のモノになっちまったんだよな」
「オレたちはきっぱりふられたんだ。くっそ、懐かしいな」
 哲也は懸命に思い出そうとした。
 哲也の記憶では、いつの間にか、自分が選ばれていたという感覚だった。そんな決定的な事件があっただろうか。
「奇跡の花事件っていうと……なんだ?」
 聞きにくい空気ではあったが、ずばり聞いてみる。
 二人は大げさにのけぞった。
「マジか! おまえ、マドンナのことどうこういえないぞ、それ。どうせ結婚記念日とか誕生日とか、スルーしてんだろ」
「そういうとこは押さえとかないと、女だってモチベーション上がんないだろ。ダメだなあ、おまえ」
 どうも、雲行きが怪しい。これでは、哲也が悪いという方向にどんどん流れて行ってしまう。
 哲也は急いで咳払いをした。本当は記念日を祝ったことなど新婚以来なかったが、それぐらいやってるさと見栄を張る。
「それより、奇跡の花って、なんなんだよ」
 みちひことアキラは、顔を見合わせた。その場しのぎの哲也の嘘など、見抜いているに違いない。
 それでも、隠しておこうというつもりでもなかったようだ。肩をすくめて、アキラがいった。
「タマネギの花だよ」



 結局、散々二人から説教され、釈然としない気持ちを抱えながら、哲也は道路を歩いていた。
 タマネギの花。
 まったく、覚えていない。
 二人がいうには、マドンナがタマネギの花が欲しいといって、三人がどうにかそれを差しだそうとして──その結果が、彼女の心を動かしたということらしい。
「そもそも、タマネギの花って、なんだ」
 もし自分がちゃんとタマネギの花を渡したのだとしたら、どんな花なのか記憶にあるはずだ。しかし哲也は、タマネギに花なんかあるんだ、という程度の認識だった。
「もしかして……」
 嫌な予感がよぎる。
 間違いだったのではないだろうか。
 何かの間違いで、自分はマドンナに選ばれてしまったのではないだろうか。
 当時はそれはもちろん幸せだったが、いまでは惰性そのものになってしまった結婚生活。それが間違いから始まったのだとすれば、終わらせるという選択肢もあるのではないだろうか。
 哲也は首を振った。
 まずは、ガツンといわなければならない。
 そして、相手の反応を見るのだ。
 まだ、手遅れではないはずだ。
 たっぷりとローンの残るマイホームにたどり着き、鞄から鍵を取り出して、玄関を開ける。もう日付も変わるところだ。娘たちは寝ているだろうか。少なくとも、居間にはいないだろう。灯りが漏れているので、マドンナはまだ起きているのだろうが。
「ただいまー」
 独り言のようにつぶやいて、革靴を脱ぐ。
 居間へ続くドアを開けると、ソファではマドンナが豪快に寝息をたてていた。パジャマ姿で、テレビをつけっぱなしにして。
 どっと、疲れた。
 あのスレンダーボディのマドンナは、いまはもう見る影もない。
 丸々とした頬、腹、足。
 気の緩みが肉の緩みなのだ。そう思い、自らの腹を引っ込めた。お似合いの似たもの夫婦にはなりたくない。もうそうなっているという事実は考えないことにする。
 哲也は、鞄を置くと、手帳を取り出した。
 散々話し合って決めたガツンの内容を、心の中で復唱する。
 準備は万端だった。
 ごっほん、と咳払いをする。
「ただいま、公恵!」
 やや不自然なほどの大声。マドンナはびくりとして、ソファから身体を起こした。口元をさっと拭う。よだれか、いまのはよだれなのか──そう思ったがここはつっこんでいる場合ではない。
「あら、お帰りなさい、パパ。楽しかった?」
「うむ」
 威厳をもって返事をする。マドンナは立ち上がると、キッチンに向かった。冷蔵庫から牛乳を出して、自分の分だけ注ぎ、飲む。別段欲しくもないので、哲也は口を出さない。
「胃が疲れたでしょ。スープあるけど、飲む?」
 丸い目が、哲也を見た。
 目だけは、当時と変わらない。黒目がちな大きな目。その周辺に、ずいぶん小じわが増えたが。
「うむ、いただこう」
「はいはい」
 マドンナは慣れた手つきでスープを温める。その間、あの二人は元気だったかと、他愛のない会話が交わされたが、もちろん哲也の意識はガツンのことでいっぱいだった。
「どうぞ」
 スープ皿がテーブルに置かれる。
 哲也は唾を飲み込んだ。
 座ってしまう前に、ここはガツンと。
 ガツンと。
「公恵!」
 力強く、名を呼んだ。
「なあに?」
「お、お願いを、聞いてくれるかしら!」
 前置きがすっぽ抜けた。
 これではただのオネエだ。
「は?」
 マドンナがもっともな反応をしてくる。
 ちがう、そうではない。
 哲也は咳払いをして、視線を落とした。仕切り直しだ。まずはスープを飲んで、気を落ち着けて──
 ──動きが止まった。
 目が、釘付けになった。
 幾度となく食卓に登場する、マドンナの得意料理。胃に優しい、オニオンスープ。
 店でよく見るそれと異なるのは、タマネギが丸ごと一つ使われているということ。
 そして、切り込みの入れられたタマネギが、まるで花開くように、皿を彩っているということ。
「タマネギの、花……」
 思い出した。
 タマネギの花といわれてもまったく見当がつかず、当時の哲也は、ない脳みそをしぼって考えたのだ。
 タマネギを花のように見せるには、どうすればいいか。
 どうすれば、マドンナに喜んでもらえるのか。
 行き着いた結論は、タマネギに火を通して柔らかくして、花のように開かせるというものだった。
 ちょうど、このスープのように。
 哲也は、吸い寄せられるようにイスに座り、スプーンを手にした。
 一匙を、口に運ぶ。
 不覚にも、泣きそうになった。
「で、お願いって?」
 マドンナが聞いてくる。哲也は顔を上げて、長い沈黙の末、いった。
「ええと……お茶も、もらえる?」
 スープを飲み終わるころには、哲也はささやかな決意をしていた。
 とりあえず、記念日を祝うことから、始めよう。












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なんかお題くださいとつぶやいたら、「タマネギの花」というお題をいただきました。
素敵お題感謝です。