恋愛小説
わざと音をたてて、あたしは本を閉じた。
甘い甘い恋愛小説から、パタンと渇いた音。ちっともその甘さを空気に伝えてくれなくて、あたしは少しがっかりする。
こんなピンクの表紙で、なかには嘘みたいなダイスキとアイシテルが詰まってるのに、しょせんは紙とインクの集合体。閉じてしまったら、甘い空気も消えてしまった。何を期待したんだろう。
あたしは、本に隠れるようにして、ちらりと隣を見る。見慣れた横顔が、もくもくとマンガを読んでる。あたしには何がおもしろいのかわからない、何年も続いてる少年マンガ。
今度は、本を絨毯の上に置いてみた。オーバーリアクションで、にやけた顔をのぞき込む。
こうやってよく見たら、べつに特別かっこいいわけじゃない。つきあい始めた三年前は、もっとやせてて、もうちょっと髪が短くて、眼鏡の向こうの目はきらきらしてたような気がするのに。
三年っていうのは、偉大な年月だ。
ほら、三年前なら、すぐにあたしに気づいてくれたでしょ?
いつまでそのマンガ読んでるの?
「おもしろい?」
いいたいことはぜんぶ喉もとで通行止め、あたしはそんなどうでもいい質問を口にしてた。
それでも、返事はない。
わかってる。むっくんは、なにかに夢中になってるときは、まわりなんかぜんぜん見えてないんだ。
「おなかすかない?」
アプローチを変えてみる。反応なし。
試しに立ち上がってみた。独り暮らしの、狭い部屋をぐるりと一週。むっくんは掃除とは縁のないひとだから、家具も雑誌も小物もぜんぶ、どんよりとよどんでる。
やっぱり、こっちを見ない。
もうこのまま帰ってやろうか──立て付けの悪いドアを開けて、思い切り閉めたって、どうせ気づかない。あとから慌てて電話してきたって、三回の着信までは無視してやる。
でも、そんなこと、できるはずもなかった。
だってあたしは、この日を楽しみにしてたんだから。バイトの予定を開けて、やっと合った休日。外は雨で、どこにも出かけられないにしても。
いっしょにいられる時間っていうのは、あたしにとってはとても大事だ。
「──ねえ!」
とうとうあたしはしびれを切らした。
「いっしょにいるのに、いっしょにいないみたい」
恋愛小説のなかで、ヒロインがいっていたセリフ。ぜったいいってやろうって決めてた。どんな反応するかな。
でもむっくんは、マンガから目を離さずに、
「それは大変だ」
一言。
……それだけ?
どうしてやろうか。ヒロインは、彼がこっちを向いてくれないとき──そう、小説内ではたしか、二股疑惑が浮上してた──、いったいどうしてた?
あたしは思いついて、むっくんの手からマンガを取り上げた。
「あたしとマンガと、同時に溺れてたらどっち助ける?」
むっくんが、半分寝てるみたいな目をこっちに向ける。
「おまえ助けて、マンガはまた買う」
「────ああもうっ」
期待してた答えじゃない。正論だけど!
むっくんがマンガを取り返してくるのも阻止できず、あたしは次の作戦を練る。このままじゃだめだ。もっとこう、じょうずに、駆け引きしないと。三年なんて年月で、この熟年っぷりじゃだめ。あたしはもっと、いっしょにいる時間をきらきら過ごしたいのに。
頭を抱えるようにして、天井を仰ぐ。ふと、むっくんの頭上にあるカレンダーが目に入った。
そうだ、あたしには奥の手がある。
計画はもう、進行中だ。
次の日曜日。あたしの誕生日。特別な日。
むっくんのまわりからは、誕生日を連想させるものはできるだけ排除した。あたしだって、一言もそれに触れてない。
ねえ、覚えてるよね?
何してくれる? どこに連れて行ってくれる?
ううん、なんでもいい。覚えていてくれるなら。
これがあたしの最後の賭け。もし、もし万が一忘れてたら、泣いてわめいて頬をひっぱたいて、十回謝るまで許してあげない。
そうやって、駆け引きするんだ。こんな、いっしょにいるのにあたしだけ好きみたいな状況、ぜったいおかしい。
「……ねえ」
むっくんの投げ出された足に乗っかって、呼びかける。
「ねえってば」
もう一度。むっくんはやっと、マンガを横にずらしてこっちを見た。
「なんなの、さっきから」
いざ返事をされると、なんて答えればいいかわからない。
「……来週のご予定は?」
怪しいかな? いや、これぐらいならだいじょうぶ。
「来週? なんで?」
「なんでって。週末ヒマなら、会おうよ」
「いや、来週は東京からテツが帰ってくるから、遊びに出るかな」
…………ぶつん。
頭のなかで、大事なモノが真っ二つに切れた。
ショートしたみたいに、脳内が停電だ。どういうこと? どういうことどういうこと?
誕生日は?
特別な日は?
「なんで」
「だから、テツがさ、久しぶりに帰って……」
「なんで」
「知らねえよ、そうやってメール入ってきたんだよ」
なんでなんでなんで。
聞きたいのはそんなことじゃない。ぜんぜんわかってない。
駆け引き、駆け引き──ここ一ヶ月、呪文みたいに唱えてきた言葉も、どこかにふっとんだ。
「むっくんはわかってない!」
あたしはむっくんの両のほっぺたを、ばちんと挟んだ。
「最近のあたし、なにかちがうなって気づいてた?」
「……………………あ、髪切った?」
「切ってない!」
もうほとんど泣きそうだ。このテンションのちがいはなに?
「じゃあなに」
「考えてよ!」
「わかんねえもん」
「あたし最近、むっくんにいいたい『好き』を、十回に一回ぐらいに減らしてるのに!」
むっくんはなんともいえない顔をした。そんな反応、ぜんぜん期待はずれだ。これだって、あたしの駆け引きだった。押してダメなら引いてみろっていうでしょ? それなのに、この男、気づきもしない!
「気づかなかった……」
「じゃあ来週! 来週の日曜日は、なんの日っ?」
沈黙。
五秒以上の沈黙に耐えきれずに、あたしの目から涙があふれ出した。
覚えてないんだ。覚えてないんだ!
「誕生日だバカ──!」
「ああ……うっかり」
もうなにがなんだかわからない。
せっかくの駆け引きが台無しだ。うっかりって、うっかりって!
つきあって三年なのに。こんなに、大好きなのに。
あたしは赤ちゃんみたいに泣きじゃくってた。むっくんが背中をさすろうとするけど、ほとんど反射的にそれを振り払う。
駆け引きなんてムリだ。
だって寂しい。だって寂しい。がまんなんてできない。
「だいすきなんだもん」
バカみたいな言葉が、嗚咽といっしょにこぼれる。
恋愛小説のヒロインが聞いたら呆れそうなセリフ。
でもあたしには、これが精一杯だ。
「だいすき。すき。すきすきすきすきだいすきだいすきうぇーん!」
「はいはい、わかったわかった」
わかった、ってなに。どういう意味。
あたしはしゃくり上げて、それでもどうにかして、声をしぼり出した。
「あ、あたしとマンガと、同時に溺れたら、どっち助ける?」
いいながら、バカみたいだと思うけど、もう頭にはそれしかない。むっくんは、あたしの背中に腕を回して、ぎゅっとした。
「おまえ助ける。マンガが溺れたことにも気づかない」
「ほんと? マンガ、買い直さない?」
「…………ええと」
「買い直さない?」
「わかった、すっぱりあきらめる」
そんなことがちょっと嬉しい。
涙も、だんだん、おさまってきた。
「……誕生日に」
まだ嗚咽は止まらなかったけど、この勢いでいわなくちゃいえそうになかったから、あたしは続けた。
「好きっていって」
「はあ?」
呆れた声。でも、譲れない。
「むっくん、ぜんぜんいってくれないから。誕生日プレゼントは、好きがいい。百回。百回、好きっていって」
「百回はちょっとなあ……」
「なんで!」
身体中の水分が、またいっきに涙に変換される。むっくんは腕に力を込めた。
「一回なら、いってやらなくもない。毎年誕生日に一回で、百年後には百回だ」
「ええっ? 一年に一回しかいってくれないの?」
「そこかよ」
そこってどこ?
まだまだいいたいことがあったけど、むっくんの手があたしの身体を引き離して、変わりにくちびるが近づいてくる。
なにそれ。そんなのずるい。ずるい、けど。
質問と、ちゅうと、天秤にかけるならぜったいこっち。
あたしは、いいたいことはぜんぶのみこんで、目を閉じた。
恋愛小説みたいな駆け引きなんて、あたしにはやっぱりムリ。
だってあたしは、それひとつで、こんなに幸せになっちゃうんだから。
むっくんのその言葉が、遠回しなプロポーズだってわかったのは、それからずっと先のこと。
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恋愛もの初挑戦。
申し訳ない感じです。