おもひで



 



 まだ、桜は咲いていない。
 肌寒い、春の夕暮れ。 
「明日、卒業式かあ」
 縦宮翔は、伝具利中学校の校舎を見上げ、つぶやいた。
 三年間、学んだ場所。瞳を閉じれば、どんな小さなできごとも思い出せるような気がした。それはきっと錯覚で、記憶など確かなものではないことなどわかってはいたが、それでも。
「おまえ、なにしんみりしてんだよ。さっさと用件をいえ。こっちは忙しいんだぞ」
 吹き抜ける風すら感慨深く、目を閉じて感傷に浸る翔とは対照的に、山本卓はずいぶんと素っ気ない。翔は、ほんの一瞬不快そうに眉をひそめたが、すぐに思い直して真剣な顔をした。大切な用件があり、友人を呼びだしたのだ。
「あのさ、実は、頼みがあるんだ」
 そう切り出す。卓は、驚くようなことはしなかった。そんなことはわかっている、という顔。 
「大事なことだ。卓、おまえさ……ここの生徒だったっていう証拠、欲しくないか」
 意を決して、告げる。卓は、別に、と即答した。
「なんでもあるだろ、卒業証書とか卒業アルバムとか」
「そういうんじゃない、もっとこう、アツイ証拠だ。俺にしかできないようなやつな。実はもう、具体的な案もある」
 こぶしを握りしめ、力説。卓はやや身を引いた。
「どうせ、ろくでもないことだろ」
「いや、いいんだ、わかってもらおうとは思ってない。ただな、卓。いまから俺を、この壁に向かって、思い切り突き飛ばしてくれ。それだけでいいんだ」
 卓は、答えなかった。
 ほとんど無表情で、十数秒。どきどきしながら返答を待っていた翔に、ずばりと告げる。
「いっておくが、どんな強い力で押しても、漫画的にめり込んで身体の形の跡が残る、ってことはないからな」
「な……っ」
 翔が、息をのむ。
「なぜ、わかった」
「おまえ好きだもんな、そういう漫画」
 まさか、計画の全貌をいい当てられるとは思っていなかった。翔はごくりと唾を飲み込み、冷や汗を拭う。
 手強い、まったく手強い相手だ。
 なかなか協力してもらえそうもない。
「それなら……屋上は、開いてるだろうか」
「死ぬからな、落ちたら」
「くっ」
 第二の計画まで見破られ、唇をかむ。屋上から落ちて地面に俺の形を残すんだぜ計画なら、なんとかなるかと思ったのだが。
「おまえ、冷たいな、卓。もっと協力精神を持てよ」
「何年おまえとつきあってると思ってるんだ。おまえの提案にいちいち協力してたら、いまごろ生きてねえよ」
「そうか。そうだよな」
 翔はちょっと納得した。自覚がまったくないわけではない。
 そのまま、二人で校舎を見上げる。
 それでも、ここにいた確かな証が欲しいと思ってしまうのは、贅沢なのだろうか。
 中学での三年間。
 きっと、人生のなかでもっとも美しく輝いていた、三年間だ。
 何年先になろうとも、こうして、思い出すのだろう。
 あの、甘酸っぱい青春の日々。
「なあ、卓」
 呼びかけてみる。返事はない。
 だが、いつだって隣にいてくれた卓が、言葉を待ってくれていることはわかっていた。翔は笑んでしまいそうになるのをこらえながら、まじめな声で、告げた。
「せめて、おまえが覚えててくれよな。俺が、ここにいたんだってこと」
 その言葉に、卓が、翔を見る。
 そうして、息をついた。顔に浮かんだのは、限りなく無表情に近い──あきれ顔。
「覚えてるよ。つーかこれ何十年目だよ。毎年卒業式の前日に呼び出すのやめてくれ。おまえだって忙しい身だろ」
「うん、明日、役員会議」
「俺なんて、早朝から釣りだぜ。やんなるよ、接待でさ」
 二人の中年は、背中を丸めた。そろって、ため息を吐き出す。
 伝具利中学の正門から出て行く二人を、今年も笑顔で、清掃中の用務員が見送った。
 












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読んでいただき、ありがとうございました。
こういう大人が身近にたくさんいるといいなあ、とか思ったんですが、冷静に考えるとイヤかもしれません。