見えざるもの



 



 私には、聞こえる。
 私には、わかる。
 聞きたくない音。
 わかったところで、どうしようもないこと。
 人よりほんの少し、感覚が優れているだけ――幼いころから、そんなふうにいわれ続けた。大人になれば変わるかとも思ったが、それはより、顕著になるだけだった。
 こうして、結婚して十年になる夫の隣にいても――愛しい二人の子の寝息を、聞いていても。現実はなにも、変わらない。
 幸せな家庭は私の心に平穏をもたらしたが、けれど、それだけだった。
 こんな寝苦しい暑い夜には、ほとんど確実に――あの音を、私は聞くのだ。


「ねえ、起きて、お願い」
 夫の肩を揺さぶった。
 今日も日付が変わる直前まで働いていた夫は、帰るなり布団に寝転がった。あれほど好きな酒を飲む時間も惜しいとばかりに。
 彼が酒を飲んでいないことは、私にとっては救いだった。酒が入ってしまったら、いくら呼んでも起きることはないのだから。
「……なんだよ、寝かせてくれよ」
 不機嫌ながらも、それでも目を開けてくれる。私はすがるように彼の手をつかんだ。
「――いるのよ」
 一言、告げた。それで充分なはずだ。
 しかし、彼は動じなかった。ふぅん、とつぶやいたきり、また目を閉じてしまう。
「気にし過ぎだよ……害はないだろ。対策だってちゃんとしてんだから、忘れて寝ろよ」
「害はない、ですって? 対策ってまさか、あのちゃちな結界のことをいっているの?」
 私はいらいらと彼の瞼を押し開けた。起きて、と囁く。反対側で眠る子どもたちは起こしてしまわないように、それでもできるだけ、力強く。
「どうしようもないだろ。聞こえないと思えば聞こえないさ。実際、オレには聞こえない」
 なんて危機感のない男だろう――私は目眩すら覚えた。聞こえないからといって、本当に害がないなどと思っているのだろうか。いつ、子どもたちが危険にさらされるかわからないというのに。
「ねえ、そんなことないでしょう。あなたにだって、きっと聞こえるわ。ほら、去年のお墓参りのとき、聞こえるっていってたじゃない」
「あの山は特別だろ、一緒にするなよ」
 私は、ため息を吐き出した。黙っていると、もう話は終わったとばかりに、彼は再び寝始めてしまった。
 仕方なく、私も横になる。
 耳を塞ぎ、薄手の毛布を頭からかぶった。
 気にし過ぎといってしまえば、その通りなのかもしれなかった。実際、彼らがほとんどどこにでも存在するのは事実で、わかろうがわかるまいが、人間がその中で生活しているのも事実なのだ。
 ――けれど、それでも。
 私には聞こえてしまうのも、事実。

 私は瞳を閉じた。自分を守るように膝を曲げて、毛布の中でうずくまった。聞こえない聞こえないと、呪文のように唱える。
「……だめ」
 知らず、絶望的なつぶやきが、漏れた。
 やはりそれは、聞こえてきた。
 手を塞いでも、毛布をかぶっても、おかまいなしに。
「もう、我慢できないわ!」
 とうとう私は、決意した。毛布をはねのけて、立ち上がる。
「覚悟しなさい――! 安眠を妨害する権利なんて、だれにだってないのよ!」
 夜中だというのもかまわず、吠える。スーパーで買った結界のプラグを引っこ抜くと、戸棚から最終兵器を取り出した。
「無に帰してやるわ……!」
 夫が起きる気配がする。さすがに子どもたちも目を覚ましたようだ。だいじょうぶ、安心して。あなたたちは、ママが守ってあげるからね。
「おい、逃げるぞおまえたち。起きろ。靴を履くんだ」
「またなのー。やだよー、眠いよー」
「明日一限目から体育なのにぃ」
 家族の声に鼻で笑う。なにをいっているのだろう。一限目から体育などと、そんなことがなんの理由になるというのか!
「私は敵を倒すわ! それだけよ! 私たちの安眠のため、我が家の平和のために──!」
「うわ、ママ、それって……!」
「パルサンっ? それはやめるんだ、オイ!」
「うぅ、臭いッ」
 そう、これこそが最終兵器。害虫のみならず、人間さえ逃げ惑う最強最悪の文明の利器!
「一匹残らずやっつけてくれる! 蚊め――!」
 家族が外へ避難していく。白い煙の中、私はあの耳障りな音が一つまた一つと減っていく事実に、どうしようもない胸の高鳴りを覚えていた。












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ヤツらは本当にいやです。見えないのに音はする。