めぐりめぐってめぐるもの
D−3
どうしてこんなことになったのだろう。
幸せな未来しか見えていなかったわけではない。
なにもかもがうまくいくと、そんなキレイな夢を見ていたわけではない。
「どうして」
わたしの口から、恐ろしく感情のない声がこぼれ落ちた。
冷たいはずの雨に打たれていても、寒いとは感じなかった。目の前のそれが、すでになにも感じられないのと同じように。
取り乱すべきなのに、それすらできない。泣き叫べばいいのに、涙が出てこない。
「どうして」
そればかりが口をつく。
身体の表面は濡れそぼち、長い髪は雨水を含んで重くなっていた。少しも力が入らない。それでも、反比例するかのように、体内のあらゆる部分が急速に乾いていくのを感じた。
このまま、内側から干上がって、なにもかもが干上がって、消えてしまえたらいいのにと思った。
しかし、この雨がそれを許さない。
気持ちとは裏腹に、その冷たさが、質量が、自分は生きているのだと現実を告げる。
「わたしは」
こたえるものなどいないことはわかっていた。
それでも、車のライトに照らされるそれを見下ろし、唇をかみしめて、つぶやいていた。
「どうしたらいいの」
F−1
生きる意味を考えなくなって、もう随分になる。
大学卒業後に入社した、大きくも小さくもない平凡な企業。就職後すぐに、学生時代から付き合っていた女性とめでたく結婚、まもなく娘が生まれる。しかし、いわゆる幸福な家庭は、そう長くは続かなかった。
娘の小学校入学を待たずして、妻は交通事故で他界。
それは、唖然とするほどあっけない出来事だった。
証拠不充分という理由で、警察は、ひき逃げ犯を捕まえるに至らなかった。
悲しんだのは一瞬だった。それはすぐに憎悪に変わった。しかしそれも、復讐を果たしたことにより、消えていった。
何ごともなかったように、現実は続いていた。仕事も休み続けるわけにはいかず、子育ても私の肩にのしかかってきた。
生きていくために、私はできるだけの感情を殺した。
黙々と働き、責務をこなした。
娘の大学卒業を控え、やっと終わるのだと思ったとき。
娘は、ごく平然と、とんでもないことをいった。
妊娠したの──と。
だから結婚するわ、という、その言葉に、私の頭の中は文字通り真っ白になった。それが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのか、そんなことはわかるはずもなかった。
ただ、ひどくがっかりしたのだろうと思う。
何に、というのではない。
漠然と──しかし確かに、落胆したのだ。
あれから、娘とは口を聞いてない。
D−2
流行りのコンパクトカーにキーを差し込んで、エンジンをかける。すっかり身体に馴染んだ振動が心地よい。
わたしは、注意深くミラーのチェックをした。納得いくまで、座席の位置を少しずつずらしていく。昼間にサークルの先輩が運転したのだ、そういうときは気をつけないと、感覚が狂ってしまって運転しづらいことこの上ない。
「じゃあね、今日はありがとう」
窓を開け、片手を上げる。雨のなかだというのに、窓の向こうにはサークルメンバーがずらりと揃っていた。
「大丈夫なの? 泊まっていけば……つっても、たいした場所じゃございませんが」
わたしの運転技術をよく知る美咲が、窓からこちらをのぞきこんできた。
深夜といっていい時間。もう終電もないだろう。まだ残っている面々は、最初からサークルルームに泊まり込む気でいたらしい。
「だいじょーぶ。これでも三年間は車で通ったんだから。平気だよ」
「なにが平気よ。ほら、シートベルトは?」
「……いやなんだけどな」
渋々ながらも、着用する。どうしても、しない方が安全だと思えてしまうのだ。
彼らをいつまでも雨にさらしているわけにもいかないので、わたしはもう一度じゃあねというと、窓を閉めた。慎重にアクセルを踏む。
サークルルームは、学部棟とは離れたところに位置している。その一角をぐるりと迂回して、わたしは大学の門を抜けた。
雨はそれほどひどいわけではなかったが、それでも視界を悪くするには充分だった。運転初心者のように身を乗り出して、スピードを落として走行する。交通量のほとんどないこの時間なら、家までは二十分ほどだ。慣れた道ではあったが、できるだけ慎重に走行した。
誓って、気の緩みがあったわけではない。
気をつけていなかったわけではない。
──だからわたしは、衝撃が車全体を揺り動かしたときに、なにが起こったのかわからなかった。
「──え?」
間の抜けた声が、口からこぼれた。
ブレーキを踏んだのかどうかも、覚えていない。恐らく踏んだのだろうが、完全に無意識でのことだ。いつのまにか車は停まっていて、わたしはハンドルにしがみついていた。
バックミラーで、恐る恐る確認する。遠くにコンビニエンスストアの灯り。家からもっとも近いコンビニエンスストアだ。慣れすぎるほどに慣れた道。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
ハンドルを握る手が、ブレーキを踏んだであろう足が、身体中のすべてが震えだした。寒いのだろうか。なにが寒いのだろうか。震えている。なにが震えているのだろう。身体が、心が、それともこの事態そのものが。
傘も差さず、わたしは車から降りた。
どうやって足を出せばいいのかわからない。それでも、なにかに操られるかのように、それに向かって歩いた。
庇うように、両手で、腹部を押さえる。
見てはいけない、見てはいけない──見なければ、見なければ。
感覚のすべてが抜け落ちたかのようだった。
力など入るはずもなく、膝をついた。
F−2
「それは、祝福してあげるべきでしょう」
髪を茶に染めた会社の後輩が、したり顔でそんなことをいった。娘と二つほどしか違わない、若い男だ。
私は、傍目からそうとわかるほどに不機嫌な顔をした。おまえに何がわかる、と。
「できちゃった婚なんてフツーですよ、イマドキ。順番はどうであれ、好きなやつ見つけてやることやって、結婚して幸せになって、さらにベイビーちゃんまで授かっちゃうわけでしょ、そんなめでたいことってないじゃないですか」
男のくせに香水の匂いを漂わせ、べいびーちゃん、などと軟弱な単語を使いこなす。もう、答えてやる気も失せた。たまたま帰りの電車で乗り合わせ、たまたま浮かない顔してますねといい当てられ、ならばと話してみただけだ。アドバイスなど求めていたわけではない。
むっつりとしたまま、私は彼に別れを告げ、電車を降りる。寄り道もせず歩いて、マンション二階の我が家にたどりついた。
当然のように扉の向こうは暗闇で、さらに気持ちが重くなった。娘は、例の男のところなのだろうか。なにしろずっと会話していないのだ。いまどこで何をしているのかなど、わかるはずもない。とはいえ、会話をしていても、好きな男がいることすら知らなかったわけだが。
着替える気にもなれず、私はリビングの灯りをつけ、戸棚を開けた。もうしばらく見ていなかったアルバムを引っ張り出す。
生まれたその日から、ページをめくる。目の大きな、男の子のような赤ちゃん。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔……あまりの懐かしさに、鼻の奥がつんとした。妻の丸い字で、詳しすぎるほどにコメントが書き込まれている。女の子であることを強調するかのような、赤とピンクばかりの飾りたち。
途中から、急に写真の数が減った。飾りは一切なくなり、コメントも書き込まれなくなった。理由など明白だ。妻の他界。
男の手で作られたアルバムは、淡々と写真が並べられるだけの味気ないものだった。それでも、そこから暖かいものが充分すぎるほどに伝わってきて、私は涙をこぼしていた。
休日に急な仕事が入ると、涙をこらえて行ってらっしゃいといっていた。帰りが遅くなっても、一生懸命待っていた。あの娘が、母親になろうとしている。
いつまでも子どもだと思っていたわけではない。もう成人した、一人前の人間だと認めていたつもりだ。
しかし、どうしても、準備ができていなかったのだ。何の防御もないところに、全力で拳を打ち込まれたようなものだった。
祝福してあげるべきだという、後輩の声が蘇る。
そうなのかもしれない。
本当はわかっている。めでたいことだ。娘のことは信頼している。娘が選んだ男なら──順序を違えたことはどうしても許せないが──それほど悪い男でもないのだろう。
「祝福、か」
放ってあるアルバムの一ページに、誕生日パーティーのワンシーン。苺のホールケーキを前に、娘が満面の笑みを見せている。
もう、日付が変わろうとしていた。それでも、コンビニエンスストアならやっている。
いつのまにか、雨が降り出していた。私は傘を手に取り、家を出た。
D−1
カラオケボックスから出て、わたしたちは迷惑も顧みず、横一列にならんで歩いていた。
わたしたち四期生は、もうじき卒業を迎える。今日は、卒業を記念した追い出しコンパ──まあ、簡単にいえば、卒業記念にかこつけたバカ騒ぎ──だったのだ。昼間は全員でテーマパーク、夜は飲み会、その後深夜までカラオケ。毎年のことだが、一日がかりのお祭りだ。
「センパイ、幸せになってくださいね」
「元気な赤ちゃん生んでくださいよー!」
酔っぱらったのか、右に左によろめきながら、後輩たちが口々にいう。私は苦笑した。
「そう思ってんなら、酒なんか勧めないでよ」
妊婦に飲酒は御法度だ。タバコもダメ。そんなことは、最初にいってあったのに。
「だって、最後のぶれいこーじゃないですか! 先輩がひとのものになるう」
後輩の一人──かわいい女の子だ──が、大げさなしぐさでわたしのお腹に抱きついてくる。まだ、それほど大きくなってはいない。
「お父さんとは、ちゃんと話したの?」
隣を歩きながら、美咲がさりげなく聞いてくる。わたしは息を吐き出した。
「ぜんぜん。だって、妊娠したっていっただけで、口聞いてくれなくなっちゃったから。でもちゃんと、話すよ」
「そうよ。あんたんとこは母親いないんだから、感謝の気持ちも込めてしっかり認めてもらいなさいよ」
説教じみたいい方だったが、それがなんだかありがたくて、わたしは素直に礼をいった。
そのうちに、雨が降り出した。大学はもうすぐそこだったが、みんなは慌てて走り出す。
「やっぱり降ってきた! あんた、本気で車で帰るの?」
美咲の心配もわかるが、まだ冷え込むこの季節に、サークルルームに泊まり込む気にはなれない。絶対お腹の子に良くない。
「うん、帰るよ」
わたしはそう答えながら、カバンに忍ばせてあった傘を取り出した。
帰って、お父さんと話そう。子を身ごもって初めてわかった、親としての気持ち。男手一つで育てるのは、どんなに大変だったろう。
とても言葉にしきれない感謝と、いまわたしが抱いているこの子への愛情とを、ちゃんと伝えなくちゃ。
F−3
コンビニエンスストアへの道を行く途中、私の頭の中は娘のことで支配されていた。まるで、まだ幼い娘と歩いているような、おかしな感覚にすらなった。
ときは流れているのだと、思い知る。
私は幸せになどなれないだろうと思っていた。自分を支配していた憎しみを不幸にも解き放ったとき、私は幸せになる権利を放棄した。
それが、祖父、というものになろうとしている。
世の中というのは皮肉なものだ。私が願ったのは娘の幸せだけだ。あの日から、自らの幸せなど望んでいない。
しかし、どういうことだろう。
私は幸せなのだ。
それに気づいてしまったとき、ほんの少しの、欲が出た。
どうかこのまま、生きながらえさせてはもらえないか、と。
眩しいほどに輝く店内に入り、どうにか残っていた苺のショートケーキを購入する。さすがにホールケーキは置いていなかったが、これで充分だ。フォークの数を聞かれたので、二本と答えた。
店を出て、傘を差す。ぼんやりと、道を行く。
その暗闇が、視界を覆う雨が、私に現実を突きつけた。
自らの責を、思い起こさせた。
忘れていたわけではない。だが、確かにそれは、薄れていた。
後悔しなかったわけではない。それでも、幸せを願ってしまった。
信号のない横断歩道を渡る。その中央で、ずっと遠くに続く路を見る。
こちらを見据える、黄色い二つの目。
妻は、これを見たのだろう。
あの男は、これを見たのだろう。
私は、目を閉じた。
そうだ、これでいい。
私は、幸せになるべきではない──
身体が跳ねた。
意識の最後で、私は願った。
どうか、娘と、その子が幸せでありますように。
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覆面企画プレ開催、テーマ『雨』にて第三位をいただきました。
ちょっぴりミステリに挑戦したもの。「そうだったのか」となるストーリー展開が目標です。