帰還
「やめて、やめて」
小さなひとが、泣いている。
手の形をしたそれで、懸命に小瓶を叩き、ここから出してと叫んでいる。
女はじっと、小さなひとを、見つめた。
何を泣いているのだろうと、ほんの少しの疑問が生まれる。
しかしそれも、すぐに消えてしまった。
まるで、最初からなにもなかったかのように。
空と海とが、あらゆる色を吸い込んでいた。それは空間そのものとなって、女と小さなひととを包み込む。
この世界に、二人だけ。
正確には、二人ではなかったのかもしれない。
女は胸元まで海に浸かっていた。しかし、それが本当に海なのかどうか、女にはわからなくなっていた。
何も感じなかった。
冷たさも。
あたたかさも。
「わたしをいったい、どうするの」
小さなひとの問いに、ほんの少しだけ首をかしげる。
どうしてわからないのだろう。
目的など、ひとつしかないのに。
「海に、かえすのよ」
****
──この海を救いたい?
物好きなことだねえ。
海は死のうとしていた。
魔女の呪いだとひとはいった。
青は藍色に、黒に、あるいは鮮やかな赤に。
魅入られそうになるほどの色彩を湛え、静かに狂っていった。
小さな生き物は死に絶えた。
ひとでさえ、長く触れれば命を落とした。
海は変わってしまったのだ。
ひとが諦め、海を海としない生活を求め始めたころ、ひとりの姫が立ち上がった。
海を取り戻しましょう。
魔女に会いに行きましょう。
──あたしがやったって?
とんでもない。
避けられないことだったのさ。
あんたたちは海をあまりにも軽んじた。
あんたたちは海から生まれたのに、それすらも忘れてしまった。
軽んじてなどいないと、姫は否定した。
しかし同時に、反省もした。
そして、行く先を見据えた。
二度と同じ過ちは繰り返しません。
わたしは心から、海を愛しているのです。
あの美しい海を、もう一度見たいのです。
もとの海に戻すことは、できないのですか。
魔女は笑う。
なんと身勝手なと、ひどく愉快そうに。
──できるとも。
材料が必要だがね。
海の命を取り戻すのさ。
あんたに用意できるかい。
あんただけの力で、揃えなくちゃあいけないよ。
そうでなきゃ、極上の材料は集まらない。
姫は誓った。
必ず揃えてみせます。
必ず海を、取り戻してみせます。
魔女のいうとおり、それらすべてを揃えるのは、決して容易なことではなかった。
すべてを集めるのには、気の遠くなるほどの年月を要した。
千の夜空の下で、小瓶にひとつの星の砂を。
万の朝陽を浴びて、ひとさじの光の粉を。
もっとも高い山の上で、一本の竜のひげを。
そして、もうひとつ。
****
「やめて、やめて」
小さなひとが、すがる。
女はこたえず、そっとそれを小瓶から出した。
そのまま、海に沈める。
海の中で、小さなひとがもがき、苦しんでいる。
「知っているのよ」
意識とは別のところで、女はつぶやいていた。
「あなたは、もういないの」
最初から、知っていたことだ。
「いないのよ」
わかっていたことだ。
わかっていて、女は選択した。
「黙って」
それは、ひとりごとだった。
小さなひとは、糸が切れたように静かになった。
本当はなにも叫んでなどいなかった。
本当は、そんなものはいなかった。
聞こえていたのは、耳に残った少しの欠片。
見えていたのは、瞼に焼き付いたそれらの名残。
ひとの姿を、していただけ。
そんなふうに、思えただけ。
小瓶に入れたのは、四つの材料だ。
星の砂。
光の粉。
竜のひげ。
そして、もうひとつ。
それがなんであったのか、女は考えない。
女の見下ろす海の中、小さなひとの形をしたものは、次第に輪郭を失っていった。
それはやがて、青の塊に変化した。
混沌の中でなお光を失わない、命そのもの。
女の手から、徐々に光が溢れ出す。
海を、覆いつくしていく。
藍、黒、あるいは赤だったそれが、青に染められていく。
女は表情を変えなかった。
朝陽が新たな光の粉を振りまいて、鮮やかな青が次第に露わになっていったが、それはただ、女の目に映っているだけだった。
海に生命の力が蘇る。
本来の姿を、取り戻していく。
再生の瞬間だった。
海は、命を取り戻したのだ。
待ち望んだ光景であったはずなのに、その海の片隅で、女はただ無表情に、立っていた。
うつろな眼をぐるりとめぐらせ、赤い瞳で青を見る。
それだけだ。
涙も流れない。
なにも、感じない。
そっと、両手を見た。
青に溶けようとしていた。
消えていくのだ。
生まれた海に、なにもかも。
最後に、女は思い出す。
遠い昔、姫と呼ばれていたときのことを。
星の砂を、小瓶にひとつ。
光の粉を、ひとさじ。
竜のひげを、一本。
──そして、もうひとつ。
しわがれた魔女の声が、聞こえた気がした。
消えゆく刹那、残った瞳が、海にまみれて水を零した。
──人間の命を、あるだけぜんぶ。
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企画参加作。
REONAさまのイラストを元にしていますが、いただいたイラストというわけではないのでSSのコーナーに。