カミガシの門



 

「どんなこともね、なかったことにはならないんだよ」
 囁くような祖母の言葉に、浩介は顔を上げた。浩介よりもよほど背筋を伸ばし、老いを感じさせない眼光で、彼女はそれを見つめていた。
 しめ縄の施された、二本の大木。大人二人分ほどを隔ててそびえるその神木は、二本合わせて「カミガシの門」と呼ばれている。
 小学校三年生になって、やっとカミガシの儀式への参加件を与えられた浩介は、夕方までの高揚感はどこへやら、頭の中はやりかけの「仕事」のことでいっぱいになっていた。早く帰ってしまいたい。毎年の始めに大人たちがいそいそと出かけていくこの祭りが、これほどつまらないものだとは思ってもみなかった。
「いつまで続くの。先に帰っていいかなあ」
 周囲の目を気にしながら、ぼそぼそと問う。祖母はちらりと浩介を見て、無言でげんこつを振り下ろす仕草をした。
 浩介は肩をすくめ、黙って神木に目をやる。「カミガシの門」を囲む、大人たち。冬休みに入る前には、行くといっていたはずの級友たちの姿も見つけられない。祭りなどと名ばかりで、寒い中ただ突っ立っていなくてはならない我慢大会だと教えられて、来るのをやめたのだろうか。
 松明の灯りを頼りに、大人たちがひとりひとり進み出て、門の前に立ち、思い思いのものを投げていく。小さな箱であったり、何かの本であったり。カミガシの門の向こう側は切り立った崖になっており、投げられたものはそのまま崖下に落ちていく。この山が祭りの日以外は立ち入り禁止になっているのは、そのためだ。
 山、というにはあまりに小さいが、遊具もまばらなこの公園は、昔からカミガシ山と呼ばれていた。普段は、カミガシの門に至る道には立ち入り禁止の札が立っており、年の初めに行われる祭りのときだけ、入ることを許される。とはいえ、花見のシーズン以外は、わざわざ訪れるものなどほとんどいないが。
 祭りといっても、露天の類が並ぶわけでもない。ただ、参加を希望するものが集まり、自身に縁のあるものを、カミガシの門の向こう側に投げる。実は門からは見えない道が続いており、もし昨年の行いが許されるのならば、崖下に落ちず、そのままそこにとどまる、といういいつたえがあるのだ。
 いいつたえ自体は知っていた。何をやるのかも、聞いていた。それでも祭りと名がつくからには、もう少し楽しいものを期待していたのに。
「……つまんない」
 自分にしか聞こえないように、浩介は感想を漏らした。来るのではなかった。うちでテレビを見ると宣言した姉を鼻で笑ったものだが、あちらが勝者だった。
「ほら、もうすぐ浩ちゃんの番だよ」
 祖母がこちらに手を伸ばす。しぶしぶながらもそれをつかみ、浩介は人垣から進み出た。
 手袋ごしに握りしめているのは、去年一年使った筆箱だ。プラスチック製の安物で、接続部が壊れてしまってもう使い物にならない。それでも一年、ずっと一緒だった。
「さ、こっちへ。気をつけてね」
 知らない人に声をかけられ、緊張しながら、浩介は門の前に立った。
 門といっても、本当に、木が二本並んでいるだけだ。周囲にはぐるりと丈夫そうな柵が作られているのに、この木と木の間だけ、柵もロープも何もなく、何か間違えてしまったんじゃないかという印象を与える。その向こう側は、ただ、闇。なにひとつ見えないことが、恐ろしさを演出していた。
 だからわざわざ夜にやるんだな、明るかったら怖くも何ともないもの──わざとそんなことを思いながら、浩介は腕に力を込めた。
 えい、と声に出さずに呟いて、筆箱を放り投げた。空中に投げ出されたそれは、重力に逆らわず、当たり前のように落ちていく。
 すぐに見えなくなった。心のどこかが勝手に落胆して、浩介は、ほんの少しでも期待していた自分に驚いた。
「さあ、帰ろうか」
 祖母は儀式自体に参加するつもりはないらしい。順番待ちをしている大人たちを尻目に、二人は人混みを抜け出した。
「行いが許されるなら落ちないって。落ちるに決まってるじゃん。絶対許されないってことだ」
「浩ちゃんは頭がいいねえ」
 皮肉をいったつもりだったのだが、祖母は浩介の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「どんなこともね、なかったことにはならないんだよ。許されるなんてことはないんだ。だから、その上に立って、ひとは生きていかなくちゃいけない。そのことを確認するための儀式だよ」
「ぼく、去年は別に、悪いことなんてしてないよ」
 嘘だった。祖母のいっていることが難しくてよくわからなかったので、自分にもわかるところに話題を置こうとしたのだ。祖母が答えないので、慌てて続ける。
「テストの点だって悪くなかったし、嘘も……あんまりついてないし、お手伝いもちゃんとした。すみれの面倒も見たし、姉ちゃんとケンカしたときも、謝った」
 早口で告げた。なんだかこどもっぽくて、浩介はそれ以上はいうのをやめる。恐る恐る見上げると、先を行く祖母の後ろ姿が笑っていた。
「浩ちゃんが良い子なのは知ってるよ。そうじゃなくてね、たとえば浩ちゃん、お肉もお魚も食べるでしょう。こうして、歩いているでしょう。息を吸い込んで、生きているでしょう。ただそれだけのことで、必ず、何かの上に立っているんだ。そういうことだよ。……そうだね、もう少し大きくなったら、わかるよ」
 浩介は唇を尖らせた。大きくなったら、といわれてしまえば、黙るしかない。大人は自分の説明できないことになると、すぐにこれだ。事実、まだ三年生の浩介にわからないこともあるのだろうが、そのようにいわれてしまうのは、むりやり通行禁止にされたようでおもしろくない。
「だから、カミガシの門なんだよ」
 歩調をゆるめ、浩介に並ぶと、祖母はそういって微笑んだ。
「昔はものじゃなくてね、実際に人が門をくぐったって話だよ。もちろん、みんな落っこちた。たとえ神さまがやっても、落ちて死んじゃうに決まってる……そういうことさ」
 浩介はぞっとした。同時に、何か腑に落ちないものがあった。だったらなぜ、こんな儀式を──それはやはり、浩介には理解できないのだ。
「絶対に、絶対?」
 むきになって食い下がった。
「絶対に、絶対に、落っこちちゃうの? 許されることはひとつもないの?」
 その剣幕に押されたかのように、祖母が唸る。絶対、というのは簡単だった。しかし相手はこどもだ。
「もしかしたら……許されることも、あるかもしれないけどね」
 そういって受け流した。それでも浩介には充分だったようで、満足そうな笑顔になる。祖母は浩介に夢を持たせてやる気はないようで、すぐに続けた。
「まあ、でも、来年浩ちゃんがもう一回やっても、落っこちるだろうね。最近夜更かしばかりしてるの、知ってるよ」
「それはいいんだよ」
 浩介は、にやりと笑みを返した。祖母の発言は、かえって浩介の気持ちを高揚させる結果となっていた。そうだ、こんなことで嫌な気分になっている場合ではない──早く帰って、仕事の続きをしなくては。
「僕はいま、秘密の計画の途中なんだ」
「秘密? ばあちゃんにも?」
 心外そうに聞き返してくる祖母に、うなずきを返す。
「誰にも秘密」
 本当は姉ちゃんだけは知ってるけど──続きは口には出さず、祖母を追い越して、浩介は飛び跳ねるように帰路を急いだ。


 帰宅してすぐに、浩介は一階の自室に飛び込んだ。
 自室、といっても、中学一年生の姉との二人部屋だ。まだ二歳にもならない妹が幼稚園に上がるころには、この部屋は姉に引き渡して、浩介と妹で二階の部屋を使うことになっている。どちらにしろ、浩介に一人部屋が与えられる展望はいまのところない。
「お帰り。つまんなかったでしょ」
 テレビを見るといっていた姉、加奈子は、ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた。知っていたなら教えてくれればいいのに、と思わないでもなかったが、いまは悪態をつくよりも優先させたいことがあったので、浩介は黙って椅子に座る。
 勉強にはほとんど使われたことのない、まだ傷一つない勉強机の引き出しから、スーパーのレジ袋を出した。透明なレジ袋は、赤色にほんのり染まっているように見える。赤い毛糸が詰め込まれているからだ。
「あんた、よくやるねえ」
 加奈子が身体を起こし、どれどれとのぞき込んでくる。この件に関しては師匠である姉に逆らう気もなく、浩介はおとなしく──むしろ自慢げに──袋の中身を差し出した。
「へえ」
 加奈子は感嘆の声を漏らした。弟がマフラーを編むといいだしたときには笑ったものだが、なかなか立派なものができようとしていた。立派といっても、所詮かぎ針一本で編み上げる簡易を極めたマフラーなので、マフラーとして成立するかどうかという次元の話ではあったが。
 とはいえ、本一冊読み終えることのできないこの弟が、一ヶ月足らずでマフラーを完成させようとしているということは、素直に驚きだった。
「教えた甲斐があったよ。うまい、うまい。お母さん喜ぶね」
 浩介は顔を輝かせた。実はちょっと不安だったのだ。経験者に褒められたことで、ますますやる気が湧いてくる。
「でも、いいの? 月曜には学校始まるでしょ、宿題とか終わってんの?」
 実に萎える発言にもめげず、浩介は日々自分にいい聞かせていることを口に出した。
「こっちが先。母さんの誕生日は、日曜日だもん」
 宿題のことは、それから考えるつもりだ。
「ま、頑張って。私はそろそろ寝るけど。寝るときには電気消してね」
 さっさとベッドに戻る加奈子に、おやすみと告げて、浩介は姿勢を正してかぎ針を構えた。
 母の誕生日は四日後。このペースなら、間に合うはずだ。


 浩介のもくろみもむなしく、マフラーはなかなか完成しなかった。
 あと少しというところで、編み間違えてしまっている箇所が発見されたのだ。それぐらいは見なかったことにしようかとも思ったが、悩んだ末に、いくらかほどいてしまった。期日は明日に迫っているのに、まだまだ時間がかかりそうだ。
 しかし、チャンスはやってきた。ほとんど外出しない母が、東京から友人が帰ってきているとかで、朝から出かけていったのだ。父は仕事、祖母も近所の集まりに出ており、家には浩介と加奈子と、妹のすみれの三人のみとなった。こうなれば、こそこそと隠れてやらずとも、堂々と編むことができる。
 浩介は、朝から食事もとらず、ただひたすら編み続けた。自分でも驚くほどの集中力だ。
「終わりそう?」
 昼も過ぎたころ、すみれを抱いて、加奈子が部屋に入ってきた。うなずきだけを返し、一心不乱に編み続ける浩介を見て、逡巡したものの、加奈子はごめんと両手を合わせた。
「ちょっと出かけてきていい? みんなで書き初めするって約束、忘れてて。いまメールあったんだ。すみれはご飯食べたばっかりだし、おとなしくしてると思うから」
 一段編み終えてしまうまで黙って作業を続け、それからやっと浩介は顔を上げた。
「いいよ、なんとか終わりそう。すみれは見てるから、大丈夫」
「わ、ほんと。がんばったね」
 マフラーはずいぶん長くなっていた。ここで終わりにしてしまっても問題ないぐらいにはなっている。
「あだー」
 加奈子に開放されたすみれが、短い足で浩介のもとまで歩み寄り、マフラーを見上げて何ごとかいっている。偉い偉い、とでもいっているかのようだ。
 悪い気はせず、浩介はすみれの頭を撫でて、編みかけのマフラーを机の上に置いた。椅子を降りて、すみれを抱いて床に座る。
「じゃ、行ってくるね」
 コートを着て、マフラーもきっちり巻いて、加奈子は部屋を出て行った。続いて、玄関戸を閉める音が聞こえてくる。
「だぅ」
 すみれが浩介の腕から抜けだし、加奈子が出て行ったドアを叩く。反応がないのですぐに諦めて、部屋の中を徘徊し、転がっていた漫画を拾うと、浩介のところに戻ってきた。
「あい」
 差し出す。読めというのだろうか。
「絵本じゃないよ、これ。いいけど」
 浩介は漫画を受け取り、もう一度すみれを膝に抱いた。絵本を読んでやるように、ページをめくる。
 赤ちゃんってどうしてこんなにあったかいんだろ──ぼんやりと考えた。睡眠時間を削っている浩介にとって、このぬくもりは危険だった。
 すみれが漫画のキャラクターを指さして、何かをいっている。セリフを読み上げる自分の声が遠くなる。すみれのまだ短い猫っ毛が近くなり、ゆらゆらと世界が揺れる──
 
   
 ──自分のよだれが冷たくて、目を開けた。
 一瞬何が起こったのかわからず、浩介は瞬きを繰り返した。自分の部屋だ。ベッドの上ではない。手には漫画が握られていて──
「寝ちゃった……」
 一気に記憶が蘇った。腕の中にすみれがいないことに、背筋が凍る。正面に部屋のドアが見えて、なんとか気持ちを落ち着かせた。まだ一歳半をすぎたばかりの赤子だ、自分でドアを開けて出て行くことはできない。大丈夫、大丈夫だ。
「すみれ?」
 呼びかけ、探す。ぐるりと首をまわせば、それだけで見渡せる広さの部屋だ。すぐにすみれの小さな後ろ姿が目に入った。部屋の隅で、座り込んで、一心不乱に何かをしている。
 こういうときの赤子は、大抵悪さをしているものだ。驚かせてやろうと、浩介は息をひそめて、後ろから近づいていく。
 赤い何かが手にからみついて、ふりほどこうと手を上げる。そして、気づいた。
「これ……」
 毛糸だ。
 赤く、長い、縮れた毛糸。
 急いですみれの肩をつかむと、彼女は金色のかぎ針を一生懸命かじっていた。胸元の辺りまで、よだれですっかり濡れてしまっている。
 浩介は、声を出すことができなかった。気を落ち着かせるように息を吐き出して、すみれがくわえているかぎ針、その足下に渦を巻く毛糸の山を見た。
 マフラーであったはずのものは、もうそこにはなかった。
「────!」
 頭の中が、ぐるぐるした。何か醜いものがわき上がってくるのを感じた。
 混乱していく自分とは裏腹に、ひどく冷静な自分が状況を分析する。机の下に、本が重ねられていた。これを足場にして、獲物を取ったのだろう。そうして、ただおもしろくて、ほどいたのだろう。おもしろいという、それだけで、台無しにしたのだろう。
 台無しに。
 浩介の努力も、気持ちも、何もかもを台無しに──
「すみれ!」
 右手を振り上げた。
 理性など働くはずもなかった。そのまま怒りにまかせて、すみれの柔らかい頬を、思い切り叩いた。
 空気が震える。何が起こったのかわからないというように、すみれが目を見開いている。
「ばか! なんでほどいちゃうんだよ!」
 浩介の怒号と同時に、火がついたようにすみれが泣き出した。浩介は、痛む右手を押さえながら、肩を震わせた。泣きたいのはこっちだ。
 すみれの目から、どんどん涙が溢れてくる。生まれたての赤ん坊のように、顔を真っ赤にして、腹の奥から声をあげて、泣き続ける。
 泣きながら、すみれがすがった。浩介はその手をふりほどいた。
「知らない! すみれなんか大嫌いだ!」
 浩介は立ち上がった。こらしめてやろうと思った。部屋を飛び出し、急いで靴を履き、玄関戸を開け放つ。
 そのまま外へ走り出た。
 すみれの泣き声が追ってくる。靴も履かずに、家を出て来たのだろう。
 ついてくるならそれでいい。転んで、痛い目を見ればいいんだ。いくら泣いたって、許してなんてやるもんか──
「こーちゃ、こーちゃぁ」
 鳴き声の中に、浩介を呼ぶ声が混ざる。たったそれだけのことで、浩介は少し心を動かされた。もう立ち止まろうか、振り返ってやろうか──
 そのとき、誰かの悲鳴が聞こえた。
 大人のひとの悲鳴だった。危ない、と空気を裂くような声。
 車のブレーキ音。
 すみれの鳴き声が、ぴたりと止んだ。
 
 浩介は足を止めた。
 身体中が急に熱を帯びたみたいになり、耳鳴りがした。
 振り返らなくちゃ、振り返っちゃだめだ、後ろを見なくちゃ、見てはいけない、見なくちゃ、見なくちゃ、見なくちゃ──
 全身で振り返った。
 あの毛糸よりもずっと赤くなったすみれが、転がっている。 
「…………………………すみれ?」



 妹に背を向けて、浩介は走った。
 大人の人が後ろから何かを叫んでいたが、そんなことはどうでも良かった。
 途中で何度転んでも、泥がついても、膝をすりむいても、かまわずに走った。
 そんなつもりではなかったのだ。
 ちょっとこらしめてやろうと思っただけだったのだ。
 だってすみれが悪い、すみれがマフラーを台無しにしちゃったから、だから、だから──
 無我夢中で、坂を駆け上がり、立ち入り禁止の札を越えて、走り続けた。
 二本の大木が目の前に現れて、そこでやっと、足を止めた。
 涙は出てこなかった。
 まだ間に合うかも知れないと、奇妙に冷静な自分が囁いた。
 まだ、いまなら、

 許してもらえるかもしれない。
 なかったことに、なるかもしれない。
 


 ただその一心で、浩介は、カミガシの門をくぐった。













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「門」をお題とした企画小説。
こういう雰囲気を書くのは大好物です。