生贄の女
彼女は泣いていた。
私の見ている目の前で、声を殺して、ただただ泣いていた。
私は、声をかけることができないでいた。
なんといえばいいというのだろう。
一目見てそうとわかる、あまりにも明らかな、異常。
こうして目にしているだけで、まるで体中をなにかが這い回っているかのような感覚を覚えた。言葉にするのなら、恐怖、ということになるのだろうか。
否、それよりもよほどたちが悪い。
なぜなら、私は知っているからだ。
もちろん、彼女ほどの苦しみを味わったことはない。
それでも、その辛さの一端で許されるのならば、確かに知っていた。
だからこそ、乾いた舌にどうしても言葉を乗せることができなかった。
哀れめばいいのだろうか。
憤ればいいのだろうか。
なにをいったとしても、彼女の苦しみを取り除くことなど、できるわけがないというのに。
「あなたには、わからないでしょう」
私の思いが伝わったわけではないだろうが、彼女はひどく醜く腫れあがった顔を私に向けた。
太陽が皮膚を焦がす。日よけなどなにもない頭上が熱せられ、頭の芯が朦朧とした。
七月半ば。
炎天下の、森の奥。
彼女の瞳から流れ出る液体でさえ、そのまま気化してしまうのではないかと錯覚する。
「こんな愚かな風習など、理解できないでしょう──あなたのように、外から来た人には」
「わからないな」
私は、素直にこたえた。
混乱していた。
どうして、彼女だけが。なぜ、こんな目に。
答えのない問いが、繰り返し問われる。自分の感情すら、つかみかねていた。
山間の小さな村に、根強く残る風習──それが「生贄」だと聞いて、新幹線を乗り継いでまでやってきた。所詮、鼻で笑われる三流雑誌が掴んだネタだ。記者としてのプライドもなにも持ち合わせていない私は、ほとんど旅行のつもりでこの村を訪れた。
しかし、来てみれば、確かにこの村はおかしかった。
不自然なほどに、そんなことはあり得ないというほどに、快適だった。
違和感の正体をつかめず、生贄についての情報も得られないままに、数日が過ぎた。
やはりガセネタだったのだと、早々に諦めて、帰るべきだった。
知ってしまいたくはなかった。
人間とは、どうしてここまで──愚かで、残酷なのだろう。
こんな状態でなければ、さぞ美しいであろう彼女の肉体は、いまは真っ赤に染まっていた。まぶたが膨れ上がっている。あまりにも泣き続けたせいなのか、それとも別の要因によるものなのか、判断がつかない。
そして、鼻をつくこの匂い。
よく知る匂いだ。
私は、唇をかんだ。
「防ぐ、というわけには、いかないのか」
「それはできないわ」
涙は止まらないのに、彼女の瞳は、意志を帯びていた。
恐ろしく強い意志。
決して揺らがないであろうなにかが、たしかにそこにはあった。
「逃げるわけには」
「できないわ」
私は両のこぶしをにぎりしめた。爪が食い込み、痛みを感じることで、少しでも冷静になろうと努めた。
「しかし、これではあまりにも不公平だ。皆が平等であれば、それですむことではないか」
「だめ。あたしは、生贄だから」
そこには、かすかな自嘲の色があった。
私は目を逸らした。
もう、これ以上、見ていられなかった。
自分には関係のないことであるはずなのに、私は腕に爪を立てた。こらえきれず、全身をかきむしった。
「契約なのよ──やつらとの。あたし一人が苦しんで、それですむのなら、いいの。だってあたしは、村のみんなを、愛しているのだから」
あろうことか、彼女は微笑んだ。
思わず、その笑顔に目を奪われる。
その微笑みの中心である鼻の頭に、すぐに黒い点が止まった。
それが飛び立つのを静かに待ち、彼女は手にした赤と白のチューブから薬を出す。手慣れた様子で、鼻の頭に丁寧に塗った。
あの匂いが、威力を増す。
つーんとくる、あの感じ。
「……そうか」
それだけつぶやいて、私はきびすを返した。
それならば、なにをいっても無駄なのだろう。
ふと思い立って、振り返る。彼女は決して使わないだろう。自己満足かもしれない。それでも、かばんから取り出したそれを、彼女の手に握らせた。
「良く、効くから」
彼女は、もう一度、微笑んだ。
「優しいのね」
私もそっと笑った。少しでも、彼女が楽になるのならば、それでいい。
これをあげてしまっても、それほどの痛手はない。この村にいる限り安全は確保されているのだし、第一、私はまた買えばいいのだ。私の町には、いくらでも売っているのだから。
威力絶大な、文明の力。
携帯式虫除けカチョリス。
「次は、冬に来るよ──君の、本当の笑顔を見てみたい」
「そうね、ぜひ、そうしてちょうだい」
私は、今度こそ、彼女に背を向けた。
記事にしたところで、だれも信じないだろう。それでも、世間がもしこの事実を認識したならば、なにかが変わるかもしれない。
私は決意していた。
帰りの新幹線で記事がまとめられるように、頭の中はすでにそのことで支配されていた。
そうだ、記事の題名は、さしずめ──
──『生贄の女 決して蚊に刺されない村』
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虫なんて大嫌いシリーズ。
時々こういうのがむしょーに書きたくなります。