主婦28歳



 

「あなたのことなんて、忘れてた……本当に、忘れていたの」
 しかし、彼女はまた、出会ってしまった。
 役所に勤める夫と、今年四歳になる息子との暮らしに、何の不満もない。絵に描いたような幸せな日々を送る、どこにでもいる主婦。
 幸せだったのだ。
 そう──あれほどまでに心を揺さぶられた出会いさえ、思い出さないほどに。
「うぬぼれないで──もう、会いたくなんてなかった……いつもそう、あなたはそうやって、こっちの都合も考えずに、いつの間にか入り込んでくる……もううんざりなの!」
 彼女は、思い切りシンクを殴りつけようとして、すんでのところで思いとどまった。
 落ち着かなくてはならない──取り乱しては、いけない。
 この幸せを、守り切らなくては。
 網戸から、時折思い出したように風が吹き込んでくる。しかし、彼女の冷や汗は渇くことはなかった。
 七月の初め──そう、確か以前も、ちょうどこの時期だった。
 知らず、小さな笑い声が漏れた。嘲りだと、はっきりと自覚する。
 自嘲だ。
「そうね……本当は、私がいけないんだわ……。あなたのことなんて忘れて、のうのうと生きていた……。馬鹿な女」
 それでも、このまま幸せでありたいと、望んでいる。
 それは、いけないことなのだろうか。
 夫は、いつもどおり仕事に出ている。息子は隣の部屋で昼寝をしている時間だ。
 彼女は意を決した。
「あなたの目当ては、これでしょうっ? さあ、いくらでもあげるから、もう私にかまわないで! 目障りなの! もう、見たくもないの!」
 窓を開け放ち、黒ずんだバナナを庭に投げつける。後を追うようにして、彼が動くのがわかる。
 彼女は、もうためらわなかった。
 三角コーナーも、ゴミ箱も、すべてを庭に放り投げた。すばやく、窓を閉める。
「お笑いぐさね! そうやって本能に従って、エサを求めるがいいわ! これで、もう中には入れないわね……ふふ、それじゃおまえが暑いだろうって? 私は平気よ。今はね、エアコンというものがあるのよ。窓を開けなくても、涼しいの! 暑くないのよ! あなたを排除するためなら、電気代も厭わないわ!」
 彼女は高らかに笑った。窓の向こうにいる彼ら。彼らと決別できるなら、なんでもしようと思った。
 大丈夫、大丈夫だ──表面では勝ち誇りながらも、必死に自分をなだめすかす。
 大丈夫、省エネ大賞受賞のエアコンだ。たいした痛手ではない。
 その時、ゴトリ、と音がした。必要以上に驚いて、振り返る。
「ママ、おなかすいたー」
 目をこすりながら、息子が近づいてくる。
 しかし、彼女は息子を見てはいなかった。
 その向こう側に、いるはずのないものを、確認してしまっていた。
 カッと目が開かれる。
「……なんてしつこいの……! まだ残っていたのね! こうなったら、実力行使だわ!」
 数年前に買ってあったスプレーを手にして、ゆらりと構える。
 目標はあまりにも小さかったが、彼女は負けるわけにはいかなかった。
「勝負よ!」
「…………」
 忙しそうだな、と思い、息子は無言で戸棚を開け、自らの力でおやつを求め始めた。
 後で食べようと思ったまま、数日間うっかり忘れていたカップケーキから、大量のコバエが飛び立つのを見たが、見なかったことにした。 













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虫なんて大嫌いシリーズ。
コバエ大嫌いです。