天野悠良は、そびえ立つビルを見上げ、ため息を吐き出した。
『株式会社ENB』とロゴの入ったオブジェが、入り口手前で待ちかまえている。悠良には、それが何を表すものか想像もつかないが、お世辞にも趣味がよいとはいえない。オブジェとはそもそも、企業イメージを表すものでなくてはならないはずだ。
三角柱の重なり合った、奇抜なデザイン。赤と青、加えて銀という色のセンス。
「感性を疑うわ」
小さくつぶやいた。これでは、『ENB』の印象は悪くなるばかりだ。
『ENB』というのは、今年社会人一年生になったばかりの姉が、四月から通っている会社だ。地元では有名な大企業らしいが、悠良にとってみれば、給料が良いらしいことも、知り合いの大人がこぞって称賛してくることも、さして重大ではない。そんなことよりも、仲の良い姉の帰りが毎日遅いことのほうがよほど問題だった。
本当なら、近づきたくもない場所だ。
それでも、進路指導会のために早く終わった高校の帰り道、遠回りしてまでここへやってきたのには、もちろん理由があった。
姉が帰ってこないのだ。
二日前から、連絡もないままに。
両親は、もう大人なんだからそういうこともあるだろうと、深く考えていないようだった。悠良にはそれが信じられない。連絡もなく姿を消すような姉ではないのだ。心配ではないのかと、呆れてしまう。
夏だというのにスーツを着込んだ大人たちが、セーラー服姿の悠良に視線をやりつつも、ビルに入っていく。
さすがに不審だろうか、着替えぐらいは持ってくるべきだった──そうは思いながらも、ここまで来て引き下がるつもりもない。悠良は、ぐっと腹の底に力を込めた。
簡単なことだ。まっすぐに受付まで行って、姉に会いに来たのだと告げればいい。それだけだ。
悠良は足を踏み出した。一歩を出してしまえば、あとはもう立ち止まることのほうが難しいように思われた。オブジェの隣をすり抜け、ガラス越しに見える、まるで飾りのような受付嬢を睨みつけるように、ずんずん進んでいく。建物の目前まで来て、ガラス製の自動ドアがひどくゆっくりと開いていくのを、いらいらと待つ。
音もなく戸が開いて、悠良はとうとう建物内に足を踏み入れた。
瞬間、目眩がした。
悠良は確かに、立っていた。その実感はあるのに、まるで天地がひっくり返ったかのように、平衡感覚が揺らいだ。
「……なに?」
よろめきそうになる。支えようと、思わず額に手を当てた。
地震ではない。もちろん、誰かに殴られたというのでもない。
胸の奥から、何かが突き上げてきた。恐ろしいほどの不快感。
「高校生が、何か?」
不意に、声をかけられた。
落ち着いた、低い声。避難するようなニュアンスはなかったのに、悠良はびくりと身を震わせた。
返事もできずに、顔を上げる。背の高い、スーツ姿の男が立っていた。
悠良は、目をまたたかせた。
意識とはまったく別のところで、何か声が聞こえたような気がした。呆けたように開いた唇から、小さな声が漏れる。
「リケイ……」
それは、本当に小さなつぶやきだった。悠良自身、それが何を意味するのかはわからない。自分の口から出た言葉だということすら、信じられない。
しかし、その一言は、男に衝撃を与えたようだった。彼は目を見開いたかと思うと、すぐに不審そうに眉をひそめた。
「どうして、俺の名を」
「名?」
今度は、悠良が眉根を寄せる。名、なのだろうか。先ほど口にした言葉が。
「ごめんなさい、ちょっと目眩がして。……あの、姉に会いに来たんですけど」
悠良は目的を忘れたわけではなかった。考えてもわかりそうにないことは、脳の端に追いやって、いわなくてはならないことを口にする。
それから、すぐに己の間違いに気づいた。この男にいって、どうしようというのだろう。
「お姉さんに? 部署はわかるかな。案内しよう」
「いえ、大丈夫です。受付の人に──」
聞きます、と続く言葉を飲み込んだ。
目を疑った。
がらんとした、無人の受付カウンター。確かにいたはずの受付嬢は、どこへ行ったというのだろう。
感じていた違和感がさらに大きさを増し、頭痛が悠良を襲う。
汗が頬を伝った。
ずっと高いところにある天井が、落ちてくるのではないかと錯覚する。
気づいてしまえば、あまりにも異様だった。
どうしてこれほどまでに、静まりかえっているのだろう。企業のエントランスに、受付嬢どころかスーツ姿のサラリーマンも、オフィスレディの姿もない。たったいままで、行き交う人の姿が、ガラス越しに見えていたのに。
いるのはただ、目の前の男だけだ。
「顔色が悪い。ちょっと、そこのイスに──」
男が、心配そうに顔をのぞきこんでくる。不思議なことに、この男の存在が、押し寄せてくる不快感とは無関係だということだけは、はっきりとわかった。
いわれるままに、身体を支えられながら、窓際のイスへと歩いていく。
しかし、声がそれを阻んだ。
場を支配する空気とはかけ離れた明るい声が、二人の上から降ってきた。
「そっちは、やめた方がいいと思うなー」
ずいぶんと軽い声。しかしなぜか、安心を誘う声だ。
男がそちらに目をやる。悠良も遅れて、声の方を見た。
二階の手すりに両手を投げ出して、青年がこちらを見下ろしていた。なぜか、右手に長い棒を持っている。
オフィスビルにそぐわない、パーカーとジーンズという出で立ち。間違っても、サラリーマンには見えない。
「なんだ、おまえは」
「どーも、どーも。うまい具合に二人そろってるね。俺はしがない貧乏学生です、どうぞよろしく」
それほど大声でもないのに、簡単に声が届いてくる。
スーツ姿の男は、初めて異変に気がついたようだった。悠良の身体は支えたままで、周囲を見わたした。
「なんだ……? どうして、誰もいない?」
***
いただいたイラスト妄想パワーでイントロだけ書いてみました。
これといって続きません。