「君は、だれだね?」
邪気のない声で問われ、エリスンは絶句した。
普段は無意味に高圧的な名探偵は、興味津々といった様子で、自らの城であるはずの探偵社を見回す。素敵な部屋だ、などとつぶやいた。
シャルロットは、いまや傷だらけだった。顔は赤く、表情はどこかぼんやりしている。
「お医者さまを……呼んでくるわ」
これはお手上げだ、とエリスンは判断した。馬鹿具合をいっそう増したシャルロットを一人残し、早々に探偵社を出る。
診療所への道を急ぎながら、なぜこんなことになってしまったのかと、頭の中で情報の整理を試みた。どっちにしろ、医者を呼んだら状況の説明をしなくてはならないだろう。できるだけ、詳しく。
とはいえ、そもそもなにが発端だったのか。それすら、エリスンにはわからないのだが。
*
「空を……飛べるのではないだろうか」
それは、いつもの昼下がり、いつもの探偵社。
いつもどおり絶賛暇持て余し中の名探偵シャルロット=フォームスンは、パタン、と本を閉じ、遠い目をしてつぶやいた。
沈黙。
ちょっとどうしようもない沈黙。
「なんの話?」
気の利いたツッコミは思いつかず、名助手エリスン=ジョッシュが、ただ純粋に疑問を口にする。ティーカップが空になっていることに気づくと、新しくハーブティーを注いだ。今朝、やっとの思いで手に入れた、話題のハーブティー『ウマスギルン』だ。いつどこで見ても売り切れている、大人気の一品。
しかし、彼は応えない。
肘掛け椅子に深く座り、腕を組んで、どこか遠いところを見ている。
エリスンは、デスクの上に置かれた本に視線を落とした。朝からずっと、つい先ほどまで、上司が熱心に読んでいた本だ。題名を見て、愕然とする──『人類の進化』。
ということは──エリスンは考えた。
先の発言の主語は、鳥とか虫とか、そういう空を飛ぶ類のものではなく、まさか、人類ということなのだろうか。
夢溢れるロマンチックな発言ととるべきか、どこまでも阿呆な発言ととるべきか。考えるまでもなく後者だ。エリスンは首を左右に振った。
「いいえ、シャルロット。飛べないわ」
ぴしゃりと、優しさゆえの正論。
シャルロットはエリスンを見て、それから窓の外を見やる。
「空を……飛べるような気がする」
「なんなの、なんでさっきから『空を』、で溜めるの? イライラするわ。熱でもある?」
事実、いらついたので、発言そのものよりも妙に酔った口調に突っ込む。最後の一言は冗談だったのだが、シャルロットの瞳がトロリとしているのを見て、額に手をあてた。
「あっつ!」
すぐに離した。どうやら、本当に発熱しているようだ。
「シャルロット、あなた、風邪?」
「はっはっは、なにをいうんだね。天才は風邪など引かないのだよ」
「そりゃあ、あなたは引かないでしょうけど」
バカだから。一応病人だということで、後半は飲み込んだ。ちょっと待って、考えましょう──自分にいい聞かせるようにつぶやいて、エリスンはオロオロと、行ったり来たりし始める。探偵社に勤めて四年になるが、シャルロットが熱を出すなど初めての経験だ。
とはいえ、自らが寝込んだことぐらいなら何度かある。そういうとき、この頼りない上司はなにをしてくれただろう──記憶を懸命に掘り起こした。そうだ、医者を呼んでくれたはずだ。
「シャルロット、あなた、とりあえず横になった方がいいわ。あたし、お医者さまを呼んでくるから。すごい熱だもの、風邪どころじゃないかもしれない」
自らの声に動揺を感じ取って、それが余計に不安感を煽る。こういうときに限って、ピンクと白の客人もいないのだ、と歯がみしながら、まずなにを優先すべきかを思案する。シャルロットを自室まで運ぶべきかもしれない。タオルを冷やして、額に乗せてやった方がいいだろうか。それとも、なにか食べるものを用意して──いや、やはり医者を呼ぶのが先決か。
ふいに、冷たさを帯びた風が入ってきた。窓は開けていなかったはずだ。ほとんど無意識に、そちらを見やる。
「────!」
エリスンは息を飲み込んだ。悲鳴をあげたいが、声にならない。
「こうは考えられないかね、エリスン君」
シャルロットは、窓枠に腰を下ろし、悠然と足を組んでいた。運動不足の上司らしからぬアクティブさだ。風が吹き込んでくる。
「人は、本当は飛べるのだ。ただ、飛べないという思いこみが、翼を幻にしてしまっているのだよ。こうして、ここから飛び立てば、私も飛べるのかもしれない」
「ちょ……、やめなさい、シャルロット!」
こいつなら本当にやりそうだ──冗談でもなんでもなくそう判断し、エリスンが慌てて制止する。
「シャレじゃすまないわよ。ここは二階よ? と、飛べるかもしれないけど、だとしても、練習が必要だわ。物語の魔女だって、修行をしてやっと飛べるようになるのよ、そうでしょう?」
自分でもいったいなにをいっているのかと思いつつも、それでも必死に説得する。頭が残念なわりに、顔の造形は異様にいい名探偵は、青空を背景に、実に鮮やかに微笑んだ。
「私が飛び立つ瞬間を、見ていてくれたまえ」
すっくと立ち上がる。エリスンに背を向ける。
「とう!」
かけ声と共に、飛び立った。
真っ逆さまに。
「シャルロット────!」
エリスンの悲痛な叫びが、ロンドド郊外に響き渡った。
*
「──と、いうわけなんです」
できるだけ詳細に、エリスンはいまに至る経緯を話した。
丸メガネの高齢な医師、ドクター・ヤブは、シャルロットの診察を終えたようだった。ふむう、とうなる。
「それは、フィクションですかのう?」
「ノンフィクションです」
気持ちは痛いほどわかったので、エリスンは真っ向から否定する。信じてください、そんな人間もいるんです。
「話が長すぎて、ところどころ聞きとばしたんじゃが……ここから落ちて骨の一本も折ってないというのは、めでたいのう」
こいつ大丈夫か、とエリスンは思ったが、医者は医者だ。
二階から落ちたというのに、シャルロットの怪我といえば見た目には派手な擦り傷、切り傷ぐらいだった。ちょうど、植木がクッションになったようだ。落ちた後、気を失っていたのも一瞬のことで、駆けつけたエリスンにはっはっはといつもの高笑いを返し、二階の探偵社まで自力で戻ってきたパワフルさ。脳だけじゃなく、いろいろ鈍いに違いない、とエリスンは思っている。
「それで、あのう……問題は、怪我じゃなくてですね」
エリスンは言葉を濁し、ベッドの上の上司をちらりと見た。ストライプ柄の寝間着に着替えたシャルロットは、診察のために上半身を起こしている。なにも考えていないような、爽やかな笑顔。
事務所の奥にあるシャルロットのプライベートルームは、実にすっきりと片づけられていて、エリスンを不安な気持ちにさせた。掃除や洗濯の折りには入るものの、こうして座って、じっくり見ることなどほとんどないのだ。まるで、知らない誰かの部屋のようで、落ち着かない。もし、彼がずっとこのままだったら──嫌な予感が胸をよぎる。
「自分のことも、あなたのことも、全部忘れてしまっている、と……まあ、一時的な健忘、記憶の混乱、ということだと思いますがのう。こればっかりは、経過を見ないことにはなんとも。元気そうだし、大事には至らんでしょうて。それに、なんというか……うぅむ」
ドクター・ヤブは、眉根を寄せると、考え込んでしまった。沈黙が落ちる。
ひょっとして、なにか大変な症状が……──胸中の不安を大きくしながら、エリスンはそっとヤブの様子をうかがった。
彫りの深い顔。真っ白な口ひげと、眉。閉じられた瞳。船をこぐ身体。
「ぐぅぅぅ」
寝てた。
スパァァン、と軽快な音が響いた。エリスンが自らのヒール靴でヤブの頭を叩いたのだ。
「──は! 待って、おばあちゃん!」
老医師が目を見開く。いっそそっちに行っても良かったのにとチラリと思いながら、何食わぬ顔で靴をはき直し、エリスンはわざとらしく咳払いをした。
「ではとにかく、このまま様子を見ろ、ということですわね?」
「あ、ああ、ええ。そうですのう」
ごにょごにょとうなずきながら、ヤブはもう一度患者に向き直った。指で目蓋を押し開けるようにして、シャルロットの緑色の瞳をのぞきこむ。
「まあ、探偵さんですから、調査とかいろいろ、お仕事もあるんでしょう。この目が、ちょっと気にはなるんですがのう。最近、麻薬の調査とか、そういったことを?」
「まさか」
エリスンは即答した。マヤクノチョウサなど、シャルロットの仕事から遠いにもほどがある。
遅れて、その意味するところに気づいた。
「な、なにか、良くない薬がどーの、ってことですか?」
「ああ、いやあ……まあ、風邪のせいかもしれませんがのう。まあ、様子を見て、また考えるっちゅーことでね。この人の好きな食べ物を用意するとか、思い出話を語るとか……そんな単純なことで、ふと記憶が戻ることもありますからのう、がんばりんさいの」
そういい残して、ドクターヤブは立ち上がった。それだけでもう帰るのか、と思いつつも、専門家にそういわれてしまったのではどうしようもない。エリスンは示された代金を手渡し、玄関まで腰の曲がった老医師を見送った。
扉を閉めて、息を吐き出す。
なんということだろう。なーんちゃって、ぜんぶ冗談でしたー、みたいな展開を多少は期待していたのだが。いまだかつてない状況に、エリスンは静かに混乱していた。まず何をすべきなのか、それすらわからない。
「ちょっといいかな、エリスン、さん?」
不意に、背後から声がかけられた。寝間着姿のシャルロットが、部屋から出てきていた。
さん、という響きに無性に悲しくなる。エリスンは、きゅっと唇を噛んだ。渦巻く感情を悟られないように、笑顔を作る。
「なあに、寝ていなくちゃだめじゃない。熱があるし、ケガだって」
「空腹でね、寝られそうにない。何か、食べるものはないのかな」
物いい自体は、変わらず偉そうだ。エリスンは苦笑して、応接テーブルの上に置いたままだったクッキーを指した。
「どうぞ。それ、あなたの分よ。それとも、夕飯にする? 何か作った方がいいかしら」
「……ふむ」
シャルロットは、顎に指をあてた。彼がよくやる仕草だ。考えるようにゆっくりと、応接ソファに腰を下ろす。しかし、クッキーには手を伸ばさず、エリスンを仰ぎ見た。
「失礼だが、私と君は、一緒に暮らしているのかね? 兄妹、夫婦、もしくは、恋人?」
エリスンは言葉に詰まった。まさか、そんな質問をされるとは。
だが考えてみれば、エリスンの名前はおろか、自分のことすら何もわからないというのだから、当然のことだろう。
「探偵と助手、上司と部下──それから、大家と下宿人といういい方もできるかしら。あなたは、ここの探偵社の社長、シャルロット=フォームスン。その助手があたし、エリスン=ジョッシュよ。この二階が、探偵社とあなたのプライベートルーム。私は三階の部屋を使わせてもらっているわ。もう、四年になるわね」
「なるほど。君はこうして、いつも、菓子や食事の用意を?」
「……そうね。家賃とか払ってないし、そういう約束なのよ」
改めて問われると、あたりまえだと思っていた様々なことが揺らぎそうだった。エリスンは瞳を伏せて、それからキッチンに向かう。
「食事を用意するわ」
「いや、ここに座ってもらえないかな。大変興味深い。じっくり、話を聞きたい気分だ」
穏やかな口調だったが、否といわせない何かがあった。エリスンは片眉を上げ、記憶を失いつつも、確かに偉そうな上司を見下ろす。彼は悠然と笑んで、手のひらで向かいのソファを指していた。どうぞ、というかのように。
「空腹じゃなかったの」
「知的好奇心の前には、そんなものは意味を成さない。私は、名探偵なのだろう?」
吐き捨てた言葉に、さらりと返される。エリスンはため息を吐き出すと、いわれるままにソファに座った。
「何を聞きたいの?」
諦めたような口調で、問う。シャルロットは満足そうにうなずいて、すべてを、と告げた。
「私と君の出会いから、いまに至るまでを。やがて日が暮れる。長い夜を、思い出話に費やすのも、おもしろいのではないかな」
「…………出会い、ね」
それはもう、ほとんど思い出したことのない、遠い昔の記憶だ。エリスンは正面の緑の瞳から目を逸らし、窓の向こうの、暮れゆく赤い空を見た。太陽が、沈んでいく。
あの日もこうして、夕陽を見たのだ──目を閉じるようにして、幼いころの、柔らかい記憶に思いを馳せた。
**
「シャルロット?」
その名を初めて聞いたときには、胸がはずんだものだった。エリスン=ジョッシュ、まだまだあどけない、しかし歳の離れた姉たちに囲まれて育ったせいか、同年代の少女よりは多少大人びた、六歳のころ。
その日、エリスンは真っ赤なドレスを着せられ、大人たちの社交の場へとかり出されていた。ホールには演奏隊の音楽が流れ、あちらこちらで料理や菓子が追加され、給仕が果実酒を配って歩く。子女なら一度は出席を願う、上流階級にしか許されない贅の極みだ。
エリスンも、ジョッシュ家の一員として、パーティへ出席するのは初めてのことではない。パーティというものに夢を見ていたころもあったが、華やかさに心を奪われたのは最初の一回だけだった。呪文のような大人たちの長い長いやりとりは彼女にはまだ理解できなかったし、わけもわからず笑顔で挨拶を続けるのは苦痛で、なにより退屈だった。その日も、パーティ開始から三十分もすれば、唇をとがらせ、すっかり壁の花となっていた。
「そうよ、エリスン。シャルロット、シャルロット=フォームスン」
瞳を輝かせる娘に、宝石だらけのドレスに身を包んだ母はにこやかに続けた。
「ちょうど、あなたと同じぐらいだったと思うわ。今日はここに来ているらしいから、挨拶してらっしゃいな」
その提案は、幼いエリスンの胸を高揚させた。この、広大な大人の世界に、自分と同じぐらいのこどもがいる──それはぜひとも探し出して、挨拶をしなくては、と思った。気が合うようなら、そのままパーティを抜け出してもいい。ドレス姿でパーティ会場を抜け出すなんて、それこそ物語のヒロインのようではないか。
「その子、どこにいるかしら。見えるところにはいないわ。二階? 料理を食べているのかも……あ、そうだわ、庭園じゃないかしら」
「まだ夕方よ。日が暮れてその先まで、パーティは続くわ。時間はたっぷりあるんだから、探検してらっしゃいな。会場から出てはだめよ。終わるころには、ちゃんとメインホールに戻ってらっしゃいね」
生活能力は皆無ながら、とにかく美人で優しい母親は、そういってエリスンの頭を撫でた。任せておいて、と返事をして、エリスンは探検に出発する。めざすは庭園。ホールの空気に飽きて、まず行くのは庭園だ、そうに決まっている──エリスンは足早に、ホールの壁を伝うようにして、庭園に向かった。
あちらこちらに装飾が施された、豪勢なガラス戸を開けると、冷たい空気がエリスンの髪を撫でた。花々が咲き始める季節ではあったが、日が落ちようという時間にはさすがに冷える。エリスンは小さなショールをきゅっと首もとでつかんだ。
庭園へと踏み出す。遠くには、手入れの行き届いた、同じ形の木々。その手前に噴水、外の空気に触れているらしい数人の大人たち。そのもっと前には、木製のベンチが並び、そのうちの一つに、小さな人影。
少しの期待の後、エリスンは眉をひそめた。
それは、彼女の思い描いていた姿ではなかった。
「シャル、ロット?」
思わず、声に出していた。自分と同じぐらいの大きさの後ろ姿が、振り返る。
「なにかな?」
こともなげに返事をされ、エリスンは言葉を失った。聞こえてしまった。いや、それよりも呼びかけてしまった。大人たちのなかで育ったエリスンは、同年代の相手にどう接していいのかよくわかっていなかった。相手が異性となると、なおさらだ。
異性。つまり、オトコノコ。
エリスンを驚愕させているのは、まさにその点だった。シャルロットといえば、女性の名ではなかったか。
「おや、これは美しいお嬢さんだ。パーティの絢爛な空気から逃れてきたのかな。私はシャルロット=フォームスン。将来、名探偵になる予定だ。どうぞよろしく」
少年は立ち上がると、小難しい言葉を並び立ててエリスンに右手を差し出した。どう見ても自分と同じぐらいだが、とてもそうとは思えない空気をまとっていて、エリスンは口を開けたまま、その手を握ることができない。疑問点が多すぎて、どこからどうつっこむべきか。
「どうしたんだね。なに、怪しいものではない。君は……なるほど、エリスン=ジョッシュ嬢かな? なあに、簡単な推理さ! 父上から、今日は私と同年代の少女が深紅のドレス姿で出席していると聞いていたのでね! はっはっは!」
いやそこまで聞いてたならわかるだろ、と思ったものの、やはりツッコミは声にならなかった。少年は、シャルロットという女名に恥じないほど、少女のように華奢で、本人に告げたら心外だといわれるかもしれないが、実際のところ非常にかわいらしかった。金色の猫っ毛に、透き通るような緑の瞳。エリスンは、思わず自分の姿を顧みる。美少女という自覚があるが、もしかしたら負けるかもしれない。
それにしても、口を開いたとたんにだだもれる、この残念な感じはどうしたことだろう──そういった人種にいままで出会ったことのなかったエリスンは、やや困惑しながらも、声をかけてしまった手前、差し出された手を握り返すと、ドレスの裾をつまんで淑女らしく一礼してみせた。
「始めまして、シャルロット。あたしはエリスン=ジョッシュ、ジョッシュ家の四女です。あなたも、パーティに飽きてしまったの?」
笑顔をはりつけて話しかける。
シャルロットは、ふむ、と少年らしからぬしぐさで鼻を鳴らした。
「私は最初から、パーティを楽しもうと思って来てはいないのでね。飽きるというのとは違うな。父上や兄上たちとともにこの場を訪れ、皆に礼儀正しく挨拶をするのが私の役目だ。つまり、私の役目はもう終わったということになる。いまは、自分の時間を満喫中だ」
「あら、それならあたしも、自分の役割は終えたわ」
エリスンは、今度は作り物ではない笑顔を浮かべた。おかしなやつだが、少なくとも退屈はしなさそうだ──そう判断すると、失礼、と一言添えて、シャルロットの隣に腰かける。それを見て、シャルロットも再び腰を下ろした。
「ねえ、聞いてもいいかしら。どうして、男の子なのに、シャルロットなの?」
聞いてもいいかしら、と前置きをしたわりには、一気に質問を投げかける。幼いといえど、エリスンにもその問いが失礼なものだという自覚はあったが、それでも好奇心の方が勝った。
しかし、当のシャルロットは、まったく気分を害した様子はなかった。よく聞かれるのか、むしろ慣れた様子で肩をすくめる。
「簡単なことさ。私には兄が三人いるのだがね。両親ともに、次はどうしても女児が欲しいという願いがあったらしい。上三人が生まれた段階で、次は『シャルロット』だと決めていたのだそうだ。生まれた子は、私──つまり男児であったわけが、兄上たちは、母上の腹が大きなころから、腹に向かって『シャルロット』と呼びかけていたし、実際に赤子は女児のようにかわいらしかった。それで、そのままシャルロットと名づけられたのだよ」
それは果たして、簡単なことだろうか──ある意味簡単すぎるほど簡単な理由だが、本当にそんなことで男に女の名をつける親がいるのか。エリスンは困惑した。しかし、目の前の少年がどこかずれているように、その家族もちょっと普通ではないのかもしれない。そういうことなら、わからなくもない。
「大変ね、ご両親の都合で、女の子の名前なんて」
たとえば自分が、男の子の名前だったらどうだろう──それは決して、いい気分ではない。こどもたちに笑われたり、大人たちに哀れまれたりするかもしれない。
「なぜだね?」
エリスンの思いをよそに、シャルロットは、心底わからないというように、質問を返してきた。
「なぜって。ひどいと思うわ、男の子に女の子の名をつけるなんて」
憤然として、エリスンが唇をとがらす。怒りはもちろん、シャルロットへではなく、その両親へ向けられたものだ。
しかし、シャルロットは笑った。自信に満ちあふれた笑みだった。
「『名は体を表す』、ということかな。実にくだらない。どんな名がつこうとも、私は私だ。私はこうして、ここに存在している。それ以上でも以下でもない。シャルロットというこの名は、たくさんの人間が、まだ生まれてもいない私を愛してくれた証でもある。疎ましく思う理由などない」
エリスンにとって、それは衝撃だった。
女の子のようにかわいらしい造形なのに、シャルロットは男らしく、微塵の隙もない笑みを見せていた。赤く染まった空が、その顔を照らす。まるで、いまこの瞬間の主役が彼であるのだと、証言するかのように。ひどく煌々と。
「あなたって……」
言葉が続かない。すごい、といいたいのかもしれなかったが、そんな単純な単語では表せないような気がした。言葉に詰まったまま、シャルロットを見つめる。
その時だった。
不意に、ホール内に響いていた音楽が途切れた。内容までは聞こえないが、金切り声が響く。女性の、甲高い声だ。悲鳴のようにも、怒鳴り声のようにも聞こえる。
「……なにかしら」
エリスンは、隠れるようにして身を縮こまらせた。ホールの入り口に一番近いのは、ベンチに座っている自分たちだったが、率先してガラス戸を開けようなどと思いつきもしない。
噴水付近にいた大人たちが、足早にやってきて、戸を開けた。その瞬間、ホール内に充満していたであろう騒然とした空気が、一気に外に流れてきたかのようだった。
「早く犯人を捜しなさい! わたくしの首飾りを、早く!」
女性の声が飛び出してくる。続いて、それをなだめるような複数の声。
「エリスン君、どうやら、事件のようだ」
会場全体を包む空気とは一人無関係のような顔をして、シャルロットは小さく笑った。
ホール内のざわめきの原因を、シャルロット少年は『首飾り紛失事件』と名付けた。
事件としては、単純なものだ。出席者のなかでも群を抜く富豪の奥方、ミルリア=ヴィッシュー。彼女が身につけていた首飾りが突然紛失した、ということらしい。
ホールの主役は、いまやヴィッシュー婦人といってよかった。彼女は肉付きの良い身体を揺すりながら、まるで出席者全員が犯人だとでもいうかのように、目を三角にして怒鳴り続けていた。
「ふつうの首飾りとは違うんです! 幻の宝石、ユッケーですわよ! あのビビンビーンと並び称される、ペペロンメット時代の逸品ですわ。それが、突然、盗まれるなんて! ここの警備はどうなっているの!」
金色の髪を振り乱し、もはや威厳も何もあったものではない。夫であるロランダ=ヴィッューが、妻を落ち着かせようと近づくものの、眼光だけで黙らされてしまった。目から光線が出たに違いない。
「怖いわね。怪盗の仕業かしら。話題になってるじゃない、ほら、怪盗三百六十五面相?」
エリスンが、シャルロットの影に隠れるようにしてつぶやいた。怪盗三百六十五面相とは、ロンドドをにぎわせている大怪盗だ。『一年毎日違う顔』がキャッチフレーズ。
震えるエリスンの手を、シャルロットはそっと握った。それから、鼻を鳴らす。
「それはないな。あの怪盗は、必ず予告状を出すだろう。そんな話は聞いていないがね」
「それは、そうだけど」
エリスンにしてみれば、何か理解の及ばない、恐ろしい事件が起きた、という感覚なのだ。いつだって取り澄ましているはずの大人たちが、驚き、困惑し、顔を青くしている。そのよどんだ空気は、エリスンのような小さな娘など、容易に飲み込んでしまいそうだった。
「怪盗だとしても、所詮は人間のやることだ。エリスン君、君は何を怖がっているのかね。堂々としていればいい。それともまさか、君にはヴィッシュー婦人の首飾りを盗んだ犯人に、心当たりでも?」
「冗談でしょう」
だとしても、たちが悪い。エリスンは、ほとんど背丈の変わらないシャルロットを睨みつけた。
「だいたい、おかしいわ。怪盗でないなら、だれ? だって、よりによって、こんなところで。ここへ来る途中とか、帰りとかならともかく、盗まれたのは踊ってる最中だったっていうじゃない。ふつうは気づかれるわ」
「ふむ、君はなかなか、筋がいい。名探偵の助手に向いてるかもしれないな。私が名探偵になった暁には、ぜひ助手として来ていただきたいものだ。──いいだろう、では、情報を整理してみようか」
エリスンの手を引き、シャルロットはホール内に足を踏み入れた。そのまま壁に寄り、腕を組んでもたれかかる。出席者それぞれの様子を、ゆっくりとうかがうようにして、ちょうど状況の整理を試みているらしいパーティの主催者、ケロン=ゲロンで目を止めた。エリスンも、丸メガネの男性に注目する。ヴィッシュー婦人の隣で、彼は溢れるように汗をかきながらも、場を穏便に収めようと必死だった。
「ミズ、ヴィッシュー。ではつまり、こういうことでしょうか。あなたは、大変気に入っている首飾り──ユッケーのあしらわれた首飾りですな──をつけて、当パーティに出席された。ええ、ええ、覚えていますとも。それはみごとな輝きでした。開始の直前でしょうか、あなたと私があいさつを交わしたときには、あなたの胸元に件の首飾りが輝いていたのは、間違いありません。それが、気がついてみれば、なくなっていた、と」
「……あたしも見たわ、そういえば。お肉に負けない宝石、って思ったもの」
ぽつり、とエリスンがつぶやく。もちろん、大人たちには聞こえないように。
「私は見ていないが、かの婦人の容姿に負けないということは、よほどの大きさなのだろうな」
平然と、シャルロットが返す。冗談のつもりはないのだろうが、エリスンはこっそり笑いをこらえた。
ふくよか、という表現ではおさまらないヴィッシュー婦人の隣に並ぶと、ケロン=ゲロンは大変痩身で、わけもなく苦労性であるような印象を与えた。少なくとも、華やかさを帯びてはいない。
「そうよ、主人とダンスをする前にも、確かにあったはず。それが、ダンスを終えてみれば、なくなっていたのよ。これが泥棒の仕業でなくて、なんなのですか! そもそも、ゲロンさん、あなた主催のパーティに来たことが間違いでしたわ。なあに、この貧相な楽隊、小さなホール。ヴィッシューを馬鹿にしていまして?」
「そ、そんな、めっそうもない」
ケロン=ゲロンは小さな身体を更に小さくした。肉食獣対草食獣のようで、もう傍目にもかわいそうだ。
シャルロットがすでに彼らを見ていないのに気づき、エリスンもその視線を追う。自称未来の名探偵は、他の出席者の様子をうかがっているようだった。それに倣い、着飾った面々の顔色を見て、エリスンもあることに気づく。
「……みんな、ものすごく迷惑そうだわ……!」
エリスンは揺るぎない事実を口にした。
蒼白で、なんとか場を収めようとしているのは、ヴィッシュー婦人の周辺をとりまくごく少数だった。距離を置いている他の出席者たちは、最初こそ驚きの表情であったものの、いまではもういい加減にしてくれオーラをまとっていた。付き合ってられない、といわんばかりだ。
「ふむ、まったくだ。怪盗の存在に怯えるとか、婦人の身を心配するといった雰囲気ではないな」
「よっぽど嫌われてるのかしら、あのおばさん。好かれそうじゃないものねえ」
「日頃の行いというのは、こういうところで響くものだ」
シャルロットとエリスンは、もはやいいたい放題だ。だが実際、大人たちの多くもそんな顔をしていた。まただわ、というつぶやきすら、聞こえてくる。
とはいえ、胸中にあるであろう不満の類を、声を大にしていうものはいなかった。ヴィッシュー婦人の周辺では、警察を呼ぶといいだした婦人を、数人がなだめている。そのまま、前にもうしろにも進めず、もちろん楽隊の演奏も途絶えたままで、会場内は膠着状態に陥ってしまった。
「警察、呼ばないのね」
エリスンがつぶやいた。事件なら、呼ぶべきだ。それとも、大人の事情というものがあるのだろうか。
「ねえ、これって、もしかして……」
「ふむ」
一人で納得したかのように、シャルロットがうなずく。エリスンは素早く反応した。
「何かわかったの?」
「いや、それよりも、確かめたいことがあってね。奇妙だ、なぜだれも問わないのか。これでは、事件なのかどうかもわからないではないか。……しかたないな」
シャルロットは、肩をすくめるようにして、足を踏み出した。いつのまにか手は離れてしまっていて、エリスンは思わず呼び止めようとする。
「シャル……」
しかし、ためらった。彼は振り返ることなく、まさに渦中のヴィッシュー婦人の元へ、ずんずん歩いていってしまったのだ。
「失礼、婦人」
ヴィッシュー婦人の目の前にまで辿り着くと、幼さを感じさせない仕草で、シャルロットは美しく一礼した。
「なあに、こどもにかまっている暇はないわよ。──あら、フォームスン家の。どうしたのかしら、ぼく?」
シャルロットがフォームスン家の四男であることに気づくと、ヴィッシュー婦人はにこやかに対応した。フォームスンを、敬意を払うべき家柄だと判断したようだ。
「少々、気になることが」
シャルロットは、ヴィッシュー婦人の肉付きの良い身体を飾り付けている、パープルのドレスをそっと指した。
「そちらの、素晴らしいドレス。宝石やレースや、あらゆる装飾が施されていますね。何かが紛れ込んでも、見ただけではわからないでしょう。ボリュームもありますので」
あらそうかしら、と返し、それから婦人は眉をひそめる。いまのは褒められたのか、それとも別の意味合いがあるのか。
シャルロットの意図に気づいたらしいケロン=ゲロンが、彼を止めようとした。しかし、さらに他の大人がゲロン氏を止めた。制止すべきではない、と首を振る。
「ところで、あなたの大切な、首飾りですが……」
シャルロットは、笑顔のまま一度言葉を切ると、息を吸い込んだ。世間話をするかのような気軽さで、続ける。
「──金具が外れて、落ちて、ドレスに引っかかっいる、という可能性は?」
──しん、とホール内が静まりかえった。
ケロン=ゲロンが頭を抱えた。他の取り巻きたちは、何かひどく苦いものをたべてしまったような顔をした。遠くで様子をうかがっていた大人たちは、驚いて息を飲んだ。エリスンは、もう少しで悲鳴をあげるところだった。
この瞬間、シャルロット少年は、確かに勇者だった。
誰もが思っていてもいえない一言、それをさらりといってのけたのだ。
「な、な、なんて失礼な……!」
ヴィッシュー婦人の顔がみるみる紅潮していく。唇はわなないて、いまにもそこから炎でも吐きそうだ。
「失礼でしょうか?」
シャルロットは肩をすくめた。
「若輩にて、細かい機微がわからず、もうしわけない。ただ、あなたの胸元に、その素晴らしい宝石が輝く姿を、一刻も早く見たいと思ったのですよ、美しい婦人」
「────!」
怒ればいいのか、称賛に礼をいえばいいのか、また自分が怒りたいのかそれとも恥ずかしいのか、ヴィッシュー婦人は困惑のままに頬を赤くした。
ふん、と鼻を鳴らし、それから視線が自分に集中していることに気づくと、これでもかと裾の広がったドレスを改める。レースや飾りをそっと払うようにして──それから、さっと顔色を変えた。
その表情だけで、様子を見ていた全員に、何があったのかわかってしまった。
しかし、大人たちも、それからシャルロットも、それ見たことか、などとはいわなかった。
謝りもせず、むしろ不機嫌なままで、ヴィッシュー婦人はスカートに装飾に絡まっていた首飾りを取り上げる。何食わぬ顔で、首から提げた。
「まあ、こんなことも、あるわね」
あろうことか、つぶやいた一言がそれだった。場に不穏な空気がたちこめる。
それらすべてを払うかのように、シャルロットはにこりと微笑んだ。
「ああ、よくお似合いです、婦人」
それが、シャルロットとエリスンの出会いだった。パーティ終了まで共に時間を過ごしたものの、パーティが終わってしまえば、その後に会う約束をするでもなく、二人が顔を合わせることはもうなかった。
ジョッシュ家の事業が良くない方向へ転がり始め、エリスンはパーティどころではなくなったのだ。対照的に、フォームスン家は次々と成功を収めているらしかった。
十数年が経ち、エリスンが二十歳になろうという折、ジョッシュ家はとうとう、家をも失った。なんとか巻き返そうと、手を伸ばしたすべてが大失敗、借金ばかりを抱えることとなり、両親はロンドドを離れた。長女、次女は早くに嫁に行き、三女は独立して働き始めた。
四女、エリスンは、途方に暮れた。ちょうどその頃、風の噂にフォームスン家の四男が親の金で探偵社を設立したと聞き、その扉を叩くことになる──。
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「──それからは、くだらない事件ともいえないような事件を相手にしているうちに、あっという間に四年よ。空飛ぶ丸い生物を捜せだの、バカな怪盗から宝石を守れだの、初恋の覆面変態を見つけて欲しいだの。……でも、そうね、それなりに楽しい日々だったわ。あたしがここへ最初に訪ねた日から、一年ごとに、あなたったらなんだかんだでお祝いしてくれるし。三年目のときなんて、青いカラスをくれたのよ──すぐ森に返したけど。つい先日、四年目の記念日は、リクエストを聞いてくれたから、レシピ集をお願いしたわね。カリスマパティシエのを頼んだのに、くれたのは謎のミス・ピンクワンピース著で。ケンカ売ってるのかと思ったわ」
すっかり夜も更けていたが、それでもエリスンは語り続けた。
シャルロットとの思い出。思い出しているうちに、時々本気で殺意のようなものが芽生えたが、不思議なもので、だんだんと、何もかもが素晴らしいできごとだったような気がしてきていた。
シャルロットは、ときおりあいづちを挟みながらも、黙って聞いていた。ただその表情は、懐かしむというよりも、知らない物語を聞いているかのような驚きをかいま見せた。
次第に、エリスンの胸を不安が支配していった。
このままでは、話し終えてしまう。伝える情報がなくなってしまう。話しているうちに、そんなこともあったな、などと、何ごともなかったように笑い出すのではないかと、かすかに期待していたのに。
「……ねえ、シャルロット。あなた、本当に、忘れてしまったの」
声が震えた。
自分の声が、ひどく頼りない響きを帯びていることに、エリスン自身が動揺した。それに気づいてしまっては、張りつめていたものが切れてしまいそうだ。どうにか踏みとどまろうとする。けれど、限界だった。
「こんなのってないわ。存在そのものがウソみたいなのに、こんなことだけ、どうして現実なの。いつもみたいに、笑いなさいよ。わけわからないこといって、バカみたいに、笑いなさいよ」
とうとう、涙がこぼれた。
けれど、それを見せるわけにはいかなかった。エリスンは、慌てて立ち上がる。怪我をして記憶を失っているのも、そしてだれより不安なのも、きっとシャルロット自身だ。自分が泣くべきではない。
「灯りが切れちゃうわね。待ってて、すぐに──」
努めて明るい声を出す。しかしその手を、シャルロットがつかんだ。
そのまま、ぐい、と引っ張られる。ソファに引き戻され、なすすべなく、倒れ込むようにして、シャルロットの腕のなかに収まった。
驚きよりも、抑えていたものが溢れ出す力の方が勝った。嗚咽をあげ、小さな子どものように、エリスンは泣きじゃくった。
あたたかい、大きな手に、抱きしめられる。パイプの残り香が、鼻をつく。
「君に泣かれると、私は、ひどく動揺してしまうようだ」
そっと告げて、シャルロットはエリスンの頭を撫でた。
「どうか、泣かないでくれないか」
「そ、それができるなら、そうしてるわよ……!」
いっそう泣き声を大きくして、エリスンはシャルロットの胸に濡れた顔をうずめた。
いつの間に寝てしまったのだろう。
目を覚ますと、ソファの上だった。毛布がかけられている。窓の向こうの空は青く、空気も冷たい。顔がひりひりして、昨夜泣きじゃくったのが本当のことなのだとわかる。きっとヒドイ顔なのだろうと思うと同時に、羞恥心がわき上がった。昨夜、あのシャルロットに抱きすくめられ、しかもその状態で、子どもみたいにわんわん泣いてしまったのではなかったか。
「シャルロット……?」
しかし、当の本人がいない。エリスンは髪を気にしながら、ゆるゆると起きあがった。寝間着にも着替えていなかったため、衣類に皺ができてしまっている。それを整えながら、いつもと何ら変わりなく見える探偵社を見回す。ここの社長は、いったいどこに行ってしまったのか。
「やあ、起きたのかね」
声がかけられ、その主を見る──エリスンは、絶句した。
寝間着から着替えたらしいシャルロットは、いつもの出で立ちの上から、エリスンのエプロンを身につけていた。ご丁寧に、頭にナプキンまで巻いている。
「……ど、どうしたの、シャルロット」
「たまには、私が朝食を、と思ったのだがね。果たして、うまくできているかどうか。起きたのなら、一緒に食べようじゃないか」
「そ、そう」
直視するのがためらわれて、視線をさまよわせながら、エリスンもダイニングへ向かう。
そうして、彼の放った一言の意味に、気づいた。
たまには、といわなかったか。
「……シャルロット? あなた──」
「おはようございます、シャルロットさん、エリスンさん──!」
「ヒュイー!」
朝も早いというのに、相変わらずノックもなしで、なじみのピンクワンピースと、謎の生物が飛び込んできた。
よほど急いできたのだろう、キャサリンは髪を振り乱している。ジョニーの毛並みもなんだか風を切った状態のままだ。
「ど、どうしたんですか、二人とも。こんな時間に」
「こんな時間だから、まだ間に合うかと思って急いだんです! 朝食、まだ、ですよね?」
「ヒュイ、ヒュイヒュイー?」
エリスンは眉をひそめた。まさか、朝食をたかりにきたとでもいうのだろうか。
シャルロットのエプロン姿から、まだだと察したのか、キャサリンは安心したように大きく息を吐き出した。肩から下げていたピンク色のバッグのなかから、新聞を取り出す。
それは、今日の日付のものだった。そんなものを持ってこなくとも、それならここにもあるのに──エリスンはそういおうとしたものの、キャサリンの剣幕に気圧されてしまう。
「エリスンさん、最近、ハーブティーに凝っているっておっしゃってましたよね? 昨日、市場でお会いしたときに、話題のハーブティーが手に入ったといって見せてくださった箱、どこかで見たことがあると思ったんです。これ、これですよね? まだ飲んでいませんか?」
示された新聞記事に目を落とし、エリスンは言葉を失った。
『話題のハーブティー「ウマスギルン」、被害者続出!』
一度に多量摂取することで、幻覚症状や記憶の混乱を引き起こすと問題になっている「ウマスギルン」が、回収されきれず、いまなお出回っていることが発覚した。ロンドド署が必死に回収を行い、各家庭に呼びかけているが、すでに購入している家庭で事件のことを知らず飲んでしまうケースなどが続発している。ティーカップ一杯程度なら問題ないが、個人差はあるものの、二杯程度で幻覚を見て奇行を犯し、三杯を越えると記憶の混乱を招く場合が多い。記憶の混乱は、数時間から一日程度で回復すると見られているが、その間に窓から飛び降りる、犯罪に走る、無駄に金を使うなどの問題行動が指摘されており────
エリスンは、無言で新聞をキャサリンに返した。
足早にキッチンへ行くと、昨日、自分が散々シャルロットに飲ませた、話題のハーブティの箱を手に取った。
間違いなかった。『ウマスギルン』と、華やかなロゴ。
よく耳にする名だから、ぜひ手に入れたいと思っていた、「話題の」ハーブティ。まさか、問題になっていたとは。
「あ、あの、まだ飲んでない、ですよね?」
恐る恐る、キャサリンがついてくる。
「ヒュイー」
どうやら、ジョニーも心配してくれているようだ。
「も、もちろんですわ、オホホホホ」
普段はしないオホホ笑いを披露しつつ、エリスンは全身がこれでもかを汗をかき始めているのを感じた。自分のせいか。何もかも、自分のせいか。
「どうしたんだね、エリスン君。キャサリンさんにジョニーさんも、よかったら一緒に朝食を。今日はこの名探偵自らが、腕を振るったのでね、楽しんでくれたまえ! はっはっは!」
レースのエプロンをはためかせ、いつもの調子で名探偵が高笑いする。ものすごい虚脱感を感じつつ、バカ丸出しの上司の顔をチラリと見て、エリスンは息を吐き出した。良かった、と小さな声が漏れる。
「あら、シャルロットさん、今朝はいつにも増してお元気そうで。何かいいことでも?」
エリスンはジョニーを抱きしめながら、お言葉に甘えて、と断って食卓につく。シャルロットはコーヒーを煎れつつ、ふむ、と笑んだ。
「詳しくは話せないのだが──昨夜、ちょっと良いことがあってね」
エリスンは息を飲んだ。
何食わぬ顔で、いそいそと朝食の準備をしているシャルロットを、呆然と目で追う。
「お、覚えて……!」
「ふむ、やはり君には、そうして憤慨している顔がよく似合うな」
「────! もう一度、ぜんぶ忘れなさい!」
エリスンはわなわなと震えながら、手にした箱から残りの茶葉をすべて取り出し、シャルロットのコーヒーカップにぶちこんだ。
***
舞台はフォームスン探偵社──
朝食を終えた名探偵シャルロット=フォームスンは、パイプを吹かして一服。それから、こちらを見てにやりと笑う。
「やあ、みなさん、こんにちは。今回の活躍はどうだったかな? ──む? 活躍などしていない? ふむ、なかなか鋭いな。こういう趣向もたまには良いのではないかと思ってね。私が幼いころから名探偵としての資質を充分に兼ね備えていたことがおわかりいただけたことだろう。それにしても、危険な世の中になったものだ。そんな茶が出回っているなどと、小さな子が飲んでしまったらどうするのだろうね。──エリスン君? だいじょうぶ、もう二度と口を聞かないとまでいわれたがね……まあ、今夜にでも機嫌を直していることだろう。彼女の怒らせるのは、今回が初めてではないのでね。もちろん、ご存じのこととは思うが。──ほら、見たまえ、エリスン君が呼んでいるようだ。夕飯のメニュー? そんなものに口出しをしたことなど、一度だってないというのに。まったく、困ったものだ。……それでは、また近いうちにお会いできることを願っているよ。次回は、過去の私ではなく、現在の私の活躍をお見せできればいいのだがね──」
微笑みつつ、席を立つシャルロット。
──暗転。
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