story2 ジョニーさんの恋物語
「ジョニーが、ジョニーが、変なんですっ!」
バタァンと探偵社の扉を開け放ち、大きく振りかぶって差し入れのマドレーヌをシャルロット目掛けて投げつけると、キャサリンはそう叫んで崩れるようにその場に座り込んだ。
平和な、平和な昼下がり。静寂は、いつもどおり唐突に破られた。何が起こったのか咄嗟には判断できず、エリスンは瞬きも忘れて、泣き崩れるキャサリンを見つめる。若き名探偵、シャルロット=フォームスンはというと、視界がマドレーヌに阻まれ、まったくもって現状がつかめない。
雑誌『週間ゴージャス』をゆっくりとソファに置き、立ち上がると、エリスンはキャサリンのもとへと歩み寄った。
「……キャサリンさん」
優しく話しかける。
「今の話から推測すると……つまり、ジョニーさんは、いつもは変ではない、と?」
「ああっ、着眼点が違います、エリスンさん!」
涙を拭って顔を上げ、きらきらした瞳を真っすぐエリスンに向けると、キャサリンはきゅっと唇を噛み締めた。
「とにかく、もう、どうしたらいいのか……! 途方に暮れてしまって、ろくにものを食べることもできず、差し入れのケーキだって分量を間違えてマドレーヌサイズに……!」
顔面にへばりついているマドレーヌをひっぺがし、シャルロットはまじまじとそれを見つめる。なるほど、マドレーヌにしては形が円柱型だ。
「……ふむ。何か、事件が起こったらしいということはわかった。詳しい事情を聞かせていただきたいな。──エリスン君、お茶を用意してくれたまえ。ああ、もちろん、私はブラックで頼むよ」
顔に丸い痕をくっきりと残しながら、シャルロットは偉そうに指示を出す。
キャサリンは小さくうなずくと、エリスンに肩を抱かれながらなんとか立ち上がり、ソファに腰掛けた。身体は小刻みに震えており、今にもまた泣きだしてしまいそうだ。
「……それで? 何があったのかね?」
「実は……あ、あの、まだはっきりしたことはわからないので、ただの杞憂かもしれないのですが……」
「なに、気にすることはないさ。遠慮せずに話してくれたまえ」
そういわれても、やはり迷いはあるのか、キャサリンはかすかに瞳を宙にさまよわせる。それから彼女は、意を決したように、口を開いた。
「実は、ジョニーが、浮気をしているみたいなんです」
がっしゃーん、とダイニングの方からカップの割れる音が聞こえてきた。
シャルロットは、悠然と火のついていないパイプをふかして、しばらく目を閉じて黙り込む。
長い沈黙が続いたのち、彼は厳かに咳払いをした。
「……疑問点が、いくつかあるのだが……」
「なんでしょうか?」
「浮気ということは、つまり……ジョニーさんにはもともと、本命というか、そういう相手が、いるということかな? そしてそれは、あなただと」
「え……」
キャサリンは、ぽっと顔を赤らめた。
「ええ、ハイ……」
恥じらう乙女も相手があれでは、笑い話か怪談だ。
「仲が良いとは思っていたけれど、本当にそういう仲だとは思いもしなかったわ……」
いれなおした紅茶とコーヒーを置きながら、エリスンが重々しくつぶやく。
キャサリンは、頬を真っ赤に紅潮させ、恥ずかしそうに首を左右に振った。
「それは、だって、恥ずかしくて、お二人にお話したことはありませんでしたし……。でも、てっきり、わかっていらっしゃるものだと……」
「…………」
「…………」
シャルロットとエリスンは、思わず目を逸らし遠くを眺める。愛だのなんだのの予測の範疇を超えているのだ、あの生物は。
「あ、それで、ほかの疑問というのは、なんでしたか?」
「……いや、気にしないでくれたまえ。たいしたことではない」
そもそもジョニーは雄なのか、コミュニケーションはどうとっているのか、浮気をするような相手はいるのか……疑問はそれこそ無限大だったが、キャサリンとジョニーが愛し合っているという事実を前にすれば、どれもこれも取るに足らないことに思えた。
「どうして、浮気をしているなんて思うんですの? ほかの女性──女性というか、何者かは別として──そういう、影でも?」
エリスンの言葉に、恋する乙女は瞳を伏せる。
「女性の影というわけではないんですが……最近、ジョニーは毎日決まった時刻にわたしの前から姿を消すんです。あとをつけようとしたのですが、何度やってもうまくいかなくて……。それに、なんだか最近よそよそしくて……」
最後の方は涙声となって擦れてしまった。若き探偵とその助手は、顔を見合わせる。
「ふむ……。それはなんとも、おもしろ……いやいや、大変な事態だな」
「そうね。どうにも興味のある……コホン、重大な事態ね」
「よし、わかった!」
シャルロットは自信たっぷりな笑みを浮かべ、身を乗り出すと、テーブルごしにそっとキャサリンの肩に手を置いた。
「この名探偵、シャルロット=フォームスンに任せなさい。ジョニーさんの様子がおかしいのはなぜなのか、必ず突き止めてみせよう!」
「ああ、ありがとうございます……!」
こうしてシャルロットは、またもや依頼の安請け合いをしたのだった。
浮気調査──全国探偵協会のデータによると、探偵への依頼の半数以上を占める項目がこれだ。駆出しのうちは誰もが浮気調査、行方不明者捜索などを手懸け、地道に知名度を上げていく。そうして、ベテランと呼ばれる段階になって初めて、流行の探偵物語で知られるような怪事件、難事件に挑むようになるのだ。
名探偵シャルロット=フォームスンは、探偵稼業を初めて早五年。年数的にはベテランといってもいい域だが、実績的には駆出しというのもおこがましい。
自称「名探偵」は、今までに浮気調査すらろくに解決したことがなかった。
「まずはどうするべきだと思うね、エリスン君?」
シャルロットは三段重ねパンケーキにシロップをかけながら、ことのついでのようにいった。キャサリンからの依頼を受けたその翌朝、ほぼむりやり噴水広場の横にあるカフェにつれてこられたエリスンは、憮然として答える。
「とりあえず、呑気かつリッチに朝食をとっている場合ではないとは思うわ」
「はっはっはっ、私は朝早くからチョコレートパフェの相手をしなくてはならない君の胃を憂えるがね」
カチャリとパフェ用の長いスプーンを置き、エリスンはシャルロットを正面から見据えた。
「三段重ねのパンケーキなんて、そんなくどいもの食べるあなたの気が知れないわ」
「おやおや、おかしなことをいう。最近体重計に乗る回数が増えているようだが、君の心配事は解決したのかな?」
「動かないくせに食べたり飲んだりばっかりしてると、ますますバカになるわよ、シャルロット」
「なに、それほどでも」
「誉めてないわよっ!」
怒鳴ってしまってから、カフェ内の客からの視線を感じ、エリスンは優雅に髪をかきあげ、気分を落ち着かせた。
「……どうするべきか、って聞いたわね。キャサリンさんの話によると、ジョニーさんは毎朝十時に姿を消すそうね? その後一体どこで何をしているのかを突き止めるために、足取りを追うのが正しい手順だと思うけど?」
シャルロットは、満足そうにうなずいてみせた。
「ふむ、そのとおりだ。尾行は浮気調査の基本だからな。……キャサリンさんの話を聞いて私が注目したのは、いつも決まった時間に姿を消すという点だ。これが何を意味するか、わかるかね?」
「……ジョニーさんは、毎日決まった時間に姿を消す必要があるってことよね。たとえば浮気なら、どこかで待ち合わせでもしているのかしら」
「見方を変えてみよう、エリスン君」
シャルロットは不敵に笑ってみせた。話しながらも、パンケーキはすでに半分なくなっている。
「いつ姿を消すかがわかっているということは、尾行がしやすいということだよ。今日は九時半から、二人で噴水広場にいるようにしてくれと、キャサリンさんにはお願いしてある。私たちはこの窓側の席から、二人の様子を観察していればいいのさ。そして、十時になればジョニーさんがどこかにいくだろうから、そうなったらこっそりと尾行する……完璧だろう?」
「…………」
自慢をするほどたいした話でもなかったが、シャルロットにしてはよく考えた方だったので、エリスンはあえて何もいわなかった。馬鹿にするのもかわいそうだが、かといって誉めるほどのことでもない、というところだ。
「そろそろ時間だな……」
噴水の横に建っている時計台は、九時半を示していた。二人は窓越しに、広場を探す。
そこにはたしかに、ピンク色のワンピースを着たキャサリンと、相変わらず白くて丸くて浮いているジョニーがいた。ベンチに腰掛け、バスケットからサンドウィッチを取り出している。仲睦まじく朝食をとるところらしい。
いつ見ても、奇妙なツーショットだ。
「はい、ジョニー、あーん」
「ヒュィー」
「うふふ、おいしい?」
「ヒュイッ。ヒュィー、ヒュユユ」
「まあ、気づいてくれたの? そうよ、あなたのために伝説のコショウをデスマウンテンに登ってとってきたのよ。喜んでもらえて嬉しいわ」
「ヒュイー」
「……なんてことを、やってるんでしょうね」
「やってるのだろうな」
ジョニーとキャサリンの口の動きに合わせて会話を創作してみた探偵サイドは、ほんの少し淋しくなって溜め息をもらした。突然ヒュイヒュイいいだした大のおとなのことを、カフェの従業員が訝しげに見ているが、そんなものを気にするシャルロット様ではない。
「こうやって観察するのは初めてだけど、キャサリンさん、本当に幸せそうね。もしジョニーさんが浮気していたら、女として許せないわ」
水の入っていたグラスの氷をスプーンでつつきながら、エリスンがそんなことを口にする。シャルロットは、なんとも複雑な表情をした。
「……ジョニーさんが浮気か。それはそれでかなりおもしろいが、浮気ということはないような気がするな。キャサリンさんのような許容範囲の広い人が、そうそういるとは思えん」
「逆に狭いんじゃないかしら? 偏ってるのね、きっと」
結構むちゃくちゃないいようだ。
そうして二人が話しているうちに、ジョニーが目に見えてそわそわし始めた。
身体全体を時計台の方に向け、時間を確認しつつ、キャサリンの顔色をうかがったり、意味もなく転がったり、見ている分にはかなり滑稽だ。
「……ジョニーさんの様子がおかしいわ。いつもおかしいけど」
「そうだな、いつもおかしいが更におかしい。そろそろか」
ジョニーは、必死にキャサリンに何かをいっているようだった。短い手でジェスチャーをしている。キャサリンはというと、困惑したような顔で、首を傾げている。
突然、ジョニーが遠くの空を指差した。いや、指はないので、手全体を使ってびしっとその方向を示した。キャサリンが反射的にそちらを見る。
まさにその瞬間だった。ジョニーは、反対側に猛スピードで飛び出した。
「動きだしたか! 行くぞ!」
シャルロットとキャサリンもまた、カフェを飛び出す。そうして、尾行が始まった。
追っ手がくることを予想していたのか、ジョニーの動きはかなり難解だった。角を曲がったかと思えば戻ってきたり、いきなり回れ右をしたりと、目的地があるのかどうかも疑わしくなるほどだ。しかし、シャルロットとエリスンのコンビは常人をはるかに凌いでとろかったので、見失ってしばらくするとまた戻ってきてくれるジョニーの動きは非常にありがたかった。
「どこにいくのかしら。だんだん僻地に向かっている気がするわ」
「はっはっはっ。疲れたなあ。少し休憩しないかね」
「この先は……そうか、ディンドンの森だわ」
あまりに自然に無視されたので、かえってすがすがしい気持ちで、シャルロットはジョニーのいる方角を見やる。なるほど、たしかにディンドンの森へと続く道だ。
「ふむ、ジョニーさんの浮気相手は森の動物ということかな。それならば納得がいくな」
「納得がいく? そうかしら。ジョニーさんは人間からはかけ離れているけど、かといって森の動物からも程遠いわよ」
「手厳しいな、エリスン君。たとえばリスの趣味など、君にわかるのかな? ジョニーさんがリスやウサギにとって憧れの的であったとしてもおかしくないだろう。私たちは人間だからね。所詮未知の世界なのだよ」
わかるようなわからないような、奇妙な理屈だった。エリスンはいつもどおり聞き流すことにする。
そのまま尾行を続けていくと、両側に並んでいた店や民家の数がだんだん少なくなっていった。人とはほとんどすれ違わなくなり、やがて森へ通じる一本道に出る。もはや、疑いようがなかった。ジョニーは、森へ向かっているのだ。
「森か……動物ぐらいしか思いつかないがな。まさか、隣街へ行くなどということはないだろうな」
シャルロットがつぶやく。さすがに隣街まで尾行するのはつらい。そもそも森でさえいつもは馬車できているのだ。今日は一日の平均運動量をとっくに越えている。
「ジョニーさん、やっぱり森に入っていったわね。本当に、浮気相手は動物なのかしら」
エリスンが不満そうにぼやく。森のなかともなると、探偵としての能力にかける二人はがさがさと音をたてまくっていたが、ジョニーは振り返ることなく真っすぐ進んでいく。
「まあ、まだ浮気と決まったわけではないしな。なにか、キャサリンさんに秘密でなくてはならないことを……おや?」
「小屋に入っていったわ……!」
二人は、思わず木の影に隠れた。こんな森の奥地に小屋があるなどと、思ってもみなかった。小屋の横には薪が積まれており、人が住んでいる気配がある。どうやら、旅人用の小屋というわけではないらしい。
「……ということは、浮気相手は人間ってことよね」
エリスンがつぶやいた。ずいぶん不機嫌そうだ。
「まだ浮気と決まったわけではないといっているだろう。中を覗いてみようじゃないか」
「いいの? ひとさまのお家、勝手に覗くなんて」
「なあに、我々は探偵だからな。かまわないさ」
自信たっぷりにむちゃくちゃな理屈を吐いて、シャルロットは小屋の裏側にまわりこんだ。ちょうど顔の位置あたりに、小さめの窓がついている。
「ちょっと、もうちょっと向こうにいってちょうだい。見えないじゃないの」
エリスンに割り込まれ、シャルロットは眉を寄せた。
「静かにしたまえ、気づかれたら厄介だ」
「そんなこといったって、あたしも見たいわよ。ジョニーさんの浮気相手よ、気になるじゃない」
「……ふむ。いいだろう」
結局、二人仲良く並んで覗くことが決定し、注意深く窓から顔を出す。
そこにいた「浮気相手」を見て、二人は絶句した。
「ひょっひょっひょっ、よう来たのう。まあまあ早う座りんな」
それは、見事な白髪を五本の三つ編みにして、銀ラメ入りの紫色のドレスを来た老婆だった。ジョニーを招き入れ、木製のテーブルにホットミルクを二つ用意し、自分も腰かける。
「ジョニーや、最近はどうだね? うまくやっちょるか?」
「ヒュイー、ヒュゥ」
「ほう、それは大変じゃの。誤解されんように気をつけにゃ。そのためにももっとがんばらにゃいかんきに」
「ヒュイ!」
シャルロットとエリスンは、ぐたりとその場に座り込んだ。ショックで、身体が震えている。
「……シュールな趣味だわ」
「……コミュニケーションが成立しているとは……」
意見が割れた。
「どういうことなの、あのお婆ちゃんがジョニーさんの浮気相手っ? 冗談じゃないわ、キャサリンさんがかわいそうよ!」
「どうして君は浮気と決めつけるのかな、エリスン君。浮気じゃないかもしれないだろう。そう、たとえば、ジョニーさんの育ての親かも……」
突然、なにかに気づいたかのように、シャルロットとはぴたりとその動きを止めた。さらに怒鳴ろうと臨戦態勢に入っていたエリスンは、拍子抜けして、訝しげな顔をする。
「……どうしたの?」
「そうか、思い出したぞ……。動物の世話をするのが生きがいという、変り者の老人の話を聞いたことがないかね?」
「……? あ、知ってるわ! たしか、街から追い出されて行方不明になっちゃったお婆ちゃんよね? ええと、名前は……」
バタンと頭上で窓の開く音がした。しゃがみこんでいた二人は、恐る恐る上を見る。
「儂はマリアンヌじゃ、お客人。さっきからこそこそと、何の用じゃ?」
窓から顔を出し、マリアンヌ婦人は、どう見ても怪しい若者二人を見下ろした。
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ! 浮気! 儂とジョニーが、浮気! それは滑稽じゃ!」
小屋のなかに招き入れられ、二人が事情を説明したとたん、マリアンヌは笑いだした。身体をくの字に折り曲げて笑っており、見たところ健康に悪い。
「ヒュイーッ」
心外だったようで、ジョニーは頬(?)を膨らませている。
「浮気かもしれないという危惧があったのは確かですわ。そう思われても仕方のない行動を、ジョニーさんはとったということです」
「ひゃっひゃっ、まあそう怒りなさんなや。可愛い顔が台無しじゃ」
「…………」
唇を尖らせて、エリスンがそっぽを向く。こういうタイプは苦手だ。
「とにかく、どういうことなのか説明していただきたいな。ジョニーさんも、キャサリンさんを悲しませていることぐらいわかっているだろう? 納得のいく説明をしていただけないのなら、今すぐにでもキャサリンさんをここに……」
「ヒュイ! ヒュイ、ヒュユゥ!」
あわてて、ジョニーがシャルロットにしがみつく。身体全体をフルフルと左右に振り、上目遣いでシャルロットを見上げ、その瞳を潤ませた。
「はっはっはっ、事情を説明してくれれば良いのだよ、ジョニーさん。そんなに焦ることはない」
「ヒュイ! ヒュィー、ヒュイヒュイヒュユユ、ヒュイ!」
「ジョニー、こやつらにはおぬしの言葉は通じんじゃろ。儂から説明しよう」
マリアンヌが助け船をだす。その言葉に、エリスンが不思議そうな顔をした。
「どうして、マリアンヌさんは、ジョニーさんの言葉がわかるんですの?」
マリアンヌは、楽しそうに目を細めた。
「おぬしらも知っておろう? 儂は無類の動物好きでな。街中でサルだのカバだのスカンクだのを飼っていたから追い出されてしまった変わりもんじゃ。人間以外の動物の言葉など、簡単に理解できるんじゃい」
「……なるほど」
まったく説明になっておらず、根本的解決にはなっていなかったが、どうせ聞いてもわからないと判断し、エリスンはうなずいておいた。
「まずは、ジョニーとの出会いを説明せにゃなるまいな……あれはいつごろだったかの。儂がいつもどおり森を散歩していたら、こやつが道に迷っているのを見つけてな。儂は、年がいもなく胸がときめいたんじゃ。森に暮らすようになってから、たくさんの動物を見てきたが、ジョニーのような生物は始めて見たからのぅ。そうして、いてもたってもいられんようになって、ついジョニーの背後に回り込んで薬を嗅がせて気絶させ、この小屋に連れてきたというわけじゃ」
「ヒュィー」
ジョニーが、懐かしそうにうなずく。
奇妙な沈黙が訪れた。
「あの、それって、誘拐……」
「それからジョニーが目を覚まし、儂らはまるで古くからの友人であるかのようにすぐに仲良くなったんじゃ」
「…………」
エリスンは、やっぱり気にしないことにした。
シャルロットはもっともらしい顔をして話を聞いているが、内容を理解している確率は極めて低い。
「ジョニーは、儂がジョニーの言葉を理解できることを知ると、儂に恋愛相談を持ち掛けてきよった。なんでも、相手の女性が自分のことをわかってくれているのかどうか、不安になることがあるというのじゃ。このとおり、言葉の壁もあることじゃけ、不安になるのもわかる」
「ヒュィー」
ジョニーが、うつむきがちに体を揺らす。
「そこでじゃ! ジョニーが想っていることを紙にしたためて、相手の女性に恋文にして渡す計画を思いついたのじゃ! どうじゃ、素晴らしい計画じゃろうて!」
ふむ、とうなずいて、シャルロットはジョニーを真っすぐに見た。
「実現すればたしかに素晴らしいが、それは不可能ではないのかな?」
真丸の体に、異様に短い手。たしかに、字を書くどころかペンが持てない。
シャルロットが正論を口にしたことに驚きながらも、エリスンもそれに賛同する。
「あたしもそう思うわ。字なんて、書けるの?」
「もちろん、書こうと思ってすぐに書けるような甘っちょろいもんじゃなか。特訓に特訓と重ねる必要があるわいな。そこでジョニーは、毎日ここにかよって、字を書く特訓をしていると、そういうわけなんじゃ」
「ヒュイ!」
勇ましくジョニーがうなずく。つまり、浮気どころか愛のための努力であったというわけだ。
ジョニーは、ふよふよと飛んで机の上にあった大きなペンを転がしながら持ってきた。そのペンには、何やら長い紐が絡み付いている。
「ジョニーは、それこそ血のにじむような特訓をした。そしてついに字が書けるようになったんじゃ!」
マリアンヌは、ジョニーの持ってきたペンを手に取った。それをジョニーの身体に器用に縛り付ける。身体全体で字を書くということらしい。
「なるほど、そうするのか。それならば、ペンをどうやって持つのかという問題は解消されるな」
「なんだか、できそうな気がしてきたわ」
探偵とその助手も、だんだんその気になってきた。
「おぬしら、これからジョニーの相手の女性のところへ報告にいくのじゃろ?
ならば、ジョニーとのでいとのせっちんぐをしといてもらえんかの。ジョニーが恋文を持って現れて、誤解も解けて愛も深まって、まさにハッピッピじゃ!」
マリアンヌはシャルロットとエリスンの背中をばしばし叩くと、豪快に笑った。
「浮気じゃ、ない?」
噴水広場でずっとジョニーを待っていたキャサリンは、現れた探偵からの説明を聞き、小さく目を見張った。
「それは、本当なんですか?」
「浮気ではないということは確かですわ。でも、いまはそれしかいえないんですの」
「このまま、ここで待っていてください。そして詳しいことは、ジョニーさん自らの口から聞けばいい」
「…………」
太陽は、早くも低くなりはじめ、夕暮に近づこうとしていた。しばらくうつむいていたキャサリンは、決心したように顔を上げる。
「……わかりました。わたし、待ってます」
さて、セッティング完了だ。
「お待たせいたしましたー、フルーツパフェと南国パンケーキでございます」
カフェの窓際に腰をかけ、シャルロットとエリスンはじっとキャサリンのいる方向を見つめていた。キャサリンと一緒にジョニーが来るのを待つほど野暮ではなかったが、かといっておとなしく帰るような常識人でもない。
「ジョニーさん、いじらしいところあるじゃない。字を書く練習をしていただなんてね」
フルーツパフェをつつきながら、嬉しそうにエリスンがいう。南国シロップをパンケーキにかけ、シャルロットはうなずいた。
「字を書けるようになったということは、言葉の壁がなくなったということだな。我々にもジョニーさんとコミュニケーションをとる術が与えられたということだ」
「そうね、わくわくするわね」
話しながらも、お互い今朝とほとんどかわらないメニューの征服に取り掛かる。散々歩いた挙げ句昼食を抜いたので、空腹でたまらなかったのだ。
空は赤く染まり、いよいよ陽が沈もうとしていた。キャサリンはベンチに腰掛け、じっと待っている。浮気ではないといわれても、きっと気が気ではないだろう。最愛の人(生物)が毎日自分のもとから姿を消すのだ。その不安と悲しみは、想像に難くなかった。
と、キャサリンがふと顔を上げ、振り返った。
「シャルロット、見て! キャサリンさんが……」
「ふむ。ジョニーさんが来たようだ」
二人はべったりとカフェの窓に顔をつける。今朝もこの二人の相手をした従業員はもはや慣れたもので、一瞥すらくれずにせっせと仕事を続けている。
見ると、夕日をバックに、ジョニーがゆっくりと飛んできていた。その表情は非常に男らしく、手には封筒が握られている。
キャサリンは、そっと立ち上がった。スローモーションで両手を顔に当て、首を左右に振って走りだす。
「ジョーーーーーニーーーーーーーー! っていってるわよ、きっと」
「いいタイミングだな。そんなところだろう」
反比例して、探偵とその助手は冷静極まりない。
キャサリンとジョニーはお互い走り寄って、ぎゅっと抱き合った。遠目にも、二人のラブラブっぷりがうかがえる。夕暮どきとはいえ、広場にはまだ何人かの人がいたが、みな見てみぬふりをしていた。
「相変わらず、熱いわねー」
エリスンはもはや遠い目をしている。
ジョニーは、キャサリンからそっと離れた。そして、手にしていた封筒を手渡す。キャサリンは小首を傾げ、封筒を開け……
彼女の目から、涙があふれだした。手紙という行為そのものに感動したのか、手紙の内容に感動したのかはわからなかったが、ほほ笑みながら涙を流し、もう一度ジョニーを抱き締める。
二人の盛り上がり度は絶頂に達していた。従って、探偵サイドは根底まで盛り下がっていた。
そのとき、突然風が吹き抜けた。思わず髪をおさえたキャサリンの手から手紙が離れ、風にさらわれる。
「手紙が……!」
エリスンが思わず立ち上がる。
ペシャリと、飛んできた手紙はカフェの窓に張りついた。ちょうどいい具合に文面が二人に見えるように張りつき、二人はそれを見て、言葉を失った。
そこには、右左に曲がりくねった太い字で、
「ヒュイ」
と、ただ三文字が、書かれていた。
「本当にすみませんでした! ジョニーが浮気しているだなんて……でも、ちゃんと、誤解も解けましたし、今はもう……」
「ヒュイー!」
「そうね、ジョニー。わたしたちの愛は永遠よね」
翌日、シャルロット探偵社にお礼をいいにきたキャサリンとジョニーは、ピンク色のオーラをまとわせ、見ているほうが疲れてしまうほどだった。どうやら、恋文作戦は予想以上に大成功だったようだ。
「……それは、よかったですね」
辛うじてエリスンが発した言葉に反応して、キャサリンが満面の笑みを浮かべる。
「ジョニー、字がかけるようになったんですよ。昨日なんて二人で筆談してたらいつのまにか朝になってて……そうだ! ジョニーが、お二人に感謝の気持ちを表したいからって、手紙を書いてきたんですよ!」
シャルロットとエリスンの表情が引きつった。
「ほら、ジョニー、手紙をお渡しして……」
「あのっ! ……ジョ、ジョニーさん、手紙なんていただかなくても、お気持ちは十分わかりましたから……」
「遠慮しておこう。手紙の内容など、わかっていることだし……」
「ヒュィー」
ジョニーが、首を傾げる。
不思議そうに瞳を瞬かせ、キャサリンは二人に問い掛けた。
「じゃあ、手紙、いらないんですか?」
『いりません』
声をそろえて、きっぱりと二人は断った。
どうやら、言葉の壁は、そうそう越えられるものではないようだ。
舞台はフォームスン探偵社。
今回たいした活躍もしなかったが、たいした馬鹿もしなかった名探偵シャルロット=フォームスンは、肘掛椅子に深く腰掛け、パイプに火を灯す。
それからこちらに気づき、疲れたように息をつくと、片方の眉を上げて一礼する。
「やあ、こんにちは、みなさん。今回も、このシャルロット=フォームスンの活躍を、楽しんでいただけたことと思う。とはいえ、私はろくな活躍はしなかったのだがね。それは、優秀な助手であるエリスン君についても同じことだ。今回はどうも、キャサリンさんとジョニーさんに振り回されて終わった感があるな。まったく、疲れる依頼だった。……ジョニーさんの手紙が欲しいって?
それはまた、おかしなことをいいだしたものだ。欲しいのなら、いくらでも差し上げよう。あれから、ジョニーさんはここを訪れるたびに手紙を置いていくからね。山のようにたまっているよ。まったく同じ内容の手紙がね。要するに、口に出そうが紙に書こうが、そもそも違う言語を操っているのだから、相互理解などできるわけがないということだ。そういう意味では、キャサリンさんやマリアンヌ婦人は尊敬に値するね。そうなりたいとは思わないが。
ああ、今回は本当に疲れた。まったく、探偵稼業も楽じゃない。……なに?おやおや、心配してくれているのかな。安心したまえ。また私が皆さんの前に姿を現す日も来るだろう。その時はもう少し、私の素晴らしい頭脳を駆使した活躍をお見せすることを約束するよ。はっはっはっはっはっ──」
高笑いが響き渡り、やがてシャルロットの姿が見えなくなっていく。
──暗転。