その花の名




 目を開けると、そこは光の支配世界だった。
 白色の壁、床、天井。開かれている家具から小物の一切に至るまで、白で統一されている。
 一室の中央に置かれたベッド。そこで寝かされていた女性は、部屋をぐるりと見回すとゆっくりと体を起こした。

「全てが白……。まるで対照的ね」

 自身の黒い髪、それと合わせたような黒いドレスに目をやり、皮肉るようにつぶやいた。

「二百七十四年の眠りから醒めた感想はどう?」

 不意に聞こえた声に女性はそちらを向く。戸の前で立っていたのは燃えるように赤い髪の少女。あどけなさの残る顔立ちでありながらも、年不相応な程の威圧感。そして溢れ出る気品を感じる。

「そうね。一言で言えば――悪い夢だったわ」
「――そう」

 少女は低く小さくそうもらす。
 その申し訳なさそうな表情に女性はくすくすと笑って見せ、当の少女は不思議そうに首を傾げた。

「なに?」
「あなた、そんな顔も出来るのね。私と話して時はいつも無表情だったから」

 そう言って互いに微笑み合うと、少女は手を差し伸べた。

「さあ、行きましょう――花羅」
「花羅。懐かしい名前ね」

 花羅は少女の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。全身を締め上げていた蔦がようやく取り払われた瞬間だ。

「ただ立ち上がるこの感覚、なんだか随分久しぶりだわ」

 二百余年。死した肉体で動いていた花羅には、精神的な疲労こそあれ肉体的な疲労は皆無だったはずだ。
 ただ立ち上がるだけの動作に組まれた筋肉の動きは、それを実感させた。

「立ち上がって地を踏んだ感想はどう?」
「そうね――体が重いわ。私ってこんなに重かったのかしら」

 などと冗談ぽくもらすと、全身に掛かるそれを感じ、花羅はまたも微笑んで見せた。その笑みは彼女の年齢に合わないほどに少女のように無邪気だ。
 花羅が人間的な死を経験してからの長い年月は、彼女自身をその時から拘束している。彼女にとっての時間は、二百年前から流れていなかったのだろう。
 そして、立ち上がった瞬間からその流れはようやくに動き出したと言える。
 長い長い廊下をコツコツと鳴らし二人は歩いた。
 どこまでも白い世界。それと対照的な花羅の姿。それを思うと彼女の心中は少々落ち込んだ。

 ――この世界はまるで、私を拒んでいるようね。

 心の中でつぶやくと苦笑し、改め隣を歩く少女――悠良を見る。
 神々しいほどの気品。それはそうだろう。この天界と呼ばれる世界を治める天女の一人娘なのだから。
 悠良は花羅に見られている事を感じ、そちらを向く。見れば見るほどに整った顔立ち。まるで計算されて生み出されたような、完璧な美が花羅を見る。

「どうしたの?」

 潤う唇に引かれた紅は、髪のように美しく嫌味ではない。それどころか悠良の美しさをいっそう引き立てている。
 彼女に掛かれば、身の回りの全てが彼女を引き立てる存在へと成り下がるのだろう。

「いえ。ただ――」

 花羅はそこで切ると、悠良の瞳を覗くように見つめた。

 ――力のある瞳。多少異なるとは言え、同じ人間とは思えないわね。

「なに?」

 じっと見つめる花羅に、悠良は特に気にする風でもなく感情のこもらない疑問を投げた。

「なんでもないわ。気にしないで」

 ――この娘にはこの先過酷な運命が待っているはず。それなのに、不安と呼べるものを一切見せない。強い娘ね。あなたは。

「なにか言った?」

 花羅はにこりと微笑む。

「赤い髪がとっても綺麗よ」
「……ありがとう」

 褒められるのになれていないのか、一瞬見せた照れくさそうな表情は、なんて事はない幼い少女のそれだった。
 しばらく歩いた先には、自身の存在をこれでもかと主張するように、白く巨大な扉が立ちふさがっていた。
 およそ三メートル強はあるだろうか、その扉に花羅はそっと手を添える。外見からは想像出来ないほどに軽く、少し力を加えただけで扉は容易に開かれた。

「あなたを受け入れているのよ」
「……私を……」

 その扉は機嫌屋らしく、受け入れた魂のみに開放を許すのだ。
 つまり、その扉を開けられるか否かで、すでに魂の選定、浄化はほぼ完了していると言っても過言ではない。

「ここからはあなた一人で行くのよ」
「……ありがとう」

 単純な感謝の言葉だったが、それに含まれる意味は非常に複雑で重いものだ。
 ここまでの送迎への感謝と、己の魂を浄化してくれた事への感謝。自身を受け入れたこの白い世界への感謝。その全てへの言葉なのだろう。
 見送る悠良を一目見た後、花羅は扉の先に待つ光の世界へと足を踏み込んだ。そこはこれまで以上に光溢れる世界だった。まるで全ての光がこの一点に集束されているような、そんな錯覚する覚える。

「着たわね、セリーヌ。いえ、花羅だったわね」

 奥に置かれた椅子。それはその存在自体が畏怖を放つように大きく、座る者を選ぶようだ。
 その光景に花羅はごくりと唾を呑み、表情を強張らせた。

「こちらへ」

 たった一言投げられたその言葉に、花羅の体は精神とは無関係に操られたように前進する。
 通路の左右に立つ者達は恐らく警備の者だろう。ニ十人は下らない。彼女がどれほど大きな存在なのか容易に伺える。
 女性の位置から少し先で立ち止まると、花羅は彼女をまっすぐ見つめた。瞳に宿る力強い光は、悠良を遥かに凌ぐものだ。
 女性はゆっくり立ち上がると花羅のわずか先まで歩み寄る。そして、おもむろに抱き寄せた。

「ごめんなさい。あなたに寂しい思いをさせてしまったのは、私達に積がある。ニ百年、寂しかったでしょう。辛かったでしょう。もう耐える必要はないのよ」

 触れる温もりと与えられた暖かい言葉。花羅の瞳から熱い涙がこぼれ、頬を伝う。

 ――なんて暖かい。まるで太陽のよう。これは……そう、母親の温もり。ああ、ようやく、長い長い眠りから醒める事が出来る。そして、あの子に……。出来る事なら、あの子にもう一度……。







「ありがとうございましたー」

 店先に響く楽しげな声。この店の看板娘、花羅のものだ。
 宝石のようにきらめく銀色の長い髪。透き通るように白い肌。すらっと伸びた美しい手足。花羅は街中の男性の憧れだ。しかしながら、浮いた噂の一つもない。
 彼女に聞けば、待っているのだと、それだけ述べる。
 ただ、なにを待っているのか、それは彼女自身にもわからないらしい。まったくもって変わった事を言う娘である。
 手に持った白いじょうろで店先に並べられた花に鼻歌混じりに水をやっていると、足元に自分のものではない誰かの影が重なった。店なのだから当然訪れた客のものだろう。

「いらっしゃ――」

 振り返りそこに立つ男性を見た瞬間、互いに動きを止めた。

「あの……」

 男性客の声に花羅は我に帰ると、滑り落としたじょうろを拾い上ようと腰を屈めた。男性もそれを拾おうと同じく腰を屈める。
 そして同時に触れた手。
 顔を上げれば、目の前には男性の顔があった。

「――あ! す、すみません! どんな花をお求めですか?」

 いつも通りの笑みを浮かべると花羅はすっと立ち上がり、男性客を店の中へと案内する。その途中、男性はある花を見て動きを止めた。

「これ、珍しいですね」

 指差した先に置かれたそれを見て、花羅はにっこり微笑んだ。

「それですか? 育てている時に突然変異した希少種ですよ。赤くて綺麗な花ですよね」
「――この名前」

 男性はネームプレートに書かれた名前を見ると、照れくさそうに微笑んで見せた。

「その名前、なんとなく思い浮かんだんです。変ですか?」

 男性は首を振ると、陽を思わせるように明るい笑みを浮かべ、彼の見せる笑顔に、花羅は内側が熱くなっていくのを感じていた。

「いや。僕と同じ名前だなって思って」
「――え」

 その花の名は、彼女の求めるものの名。二百年以上の時を超え、ようやく彼女は“それ”を手にしたのだ。
 いや、これから全てがはじまっていくのだろう――



 了

 

 

 

 了