story1 大好きな妹へ 3

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 そこは、清らかな白の支配する土地。
 一歩その地に足を踏み入れたものは、すべてを理解し、そしてすべてが最初に戻る。
 最初に──何もない、白紙の時に。
 彼らはここで、もうひとつの『一生』を過ごす。今までと何も変わらないようで、決定的に違う一生。そうして、次に生まれる時を待つのだ。
『天界』──人々は、この地をそう呼ぶ。


「お久しぶりです、お母さま」
 悠良は、真っ白な床に、そっとひざまずいた。
 深々と一礼し、眼前にいる女性を見やる。
 よく知っている──どこまでも絶対的であり、天界を支配する天女。
 すべてを統治する彼女こそ、悠良の母親であった。
「よく戻りましたね、悠良」
 真っ白な衣服に身を包んだその女性は、静かに微笑んだ。微笑んでから、周囲の人間をやんわりと部屋から追いやる。
 そして彼女は、ソファに座るよう悠良を促した。
「お母さま……」
「逢いたかったわぁ、悠良ちゃん!」
 何かをいおうとした悠良をさえぎって、彼女は歓喜の声をあげた。
 悠良が、瞬時にして渋面になる。これだから、この母親とは逢いたくなかったのだ。
「悠良ちゃんったら、全然帰ってきてくれないんだもの。どう、やっぱり下界でのお仕事は大変? 辛かったら、いつでも莉啓ちゃんか怜ちゃんに泣きつきなさいね」
「お母さま、実は……」
「ああ、でも嬉しいわ。こうして逢いにきてくれるなんて。どうしましょ、今晩は悠良ちゃんの好きなお料理にしなくっちゃ」
「お母さま……」
「それにしても、綺麗になったわねえ。悠良ちゃんは昔から綺麗だったけど!」
「…………」
「? どうかしたの?」
「話を、聞いて、いただけますかっ?」
 とうとう憤慨して、悠良は強い調子で叫んだ。
 悠良の母親は、目を瞬かせ、やがて笑いだす。
「変わってないわねぇ……。お母さん、安心したわ。それで、何の頼みがあるの?」
 やはり初めからすべてお見通しであったくせに、この対応だ。むかむかと、悠良は眉を寄せる。 
 それでもなんとか落ち着くと、彼女はこう切り出した。
「天界の最高権力者としてのあなたに、お願いがあるの」
「ママって呼んでいいのよ?」
 拗ねたように母親が口を挟むが、悠良は完全に無視した。
「天界に来た魂の名前のリスト、あなたなら持っているでしょう? 探してほしい名前があるのよ」
「天界に……って、生きてるか死んでるかってこと? 別に、そんなのは簡単だけど。なんていう名前の方?」
 うきうきと聞き返してくる母親に、悠良はきっぱりとその名を告げた。
「レシィ=セィパス」


 ミリスは、夢の中にいた。
 ふと気がつくと、目の前には自分が立っていた。
 もうひとりのミリスは、ミリスにいった。

 ──私はここにいてはいけないの。

 それはひょっとしたら、独り言なのかもしれなかった。しかしミリスは、応えた。

「どうして?」

 ──ここに居場所がないから。ここはいるべき場所じゃないから。

「どうして?」

 もう一度問う。もうひとりのミリスは、悲しそうに笑った。

 ──だってあなたはもう……

「だって、私はここにいるもの」

 ──でもだめなの。それは嘘。

「嘘つきはあなた」

 ──私はあなたよ。

「レシィは、私を必要としているもの」

 ──誰?

「レシィは、私を」

 ──誰?

「レシィは……」

 ──聞こえない。

「聞きたくないだけでしょう?」

 ──そう、聞きたくないだけ。

「どうして?」

 ──どうしてだと思う?

「どうして?」

 ──あなたと同じよ。

 もうひとりのミリスは笑った。
 ミリスは、絶叫した。


 うっすらと……かすかに、目を開ける。
 また、悪夢を見てしまった。内容は覚えていないが、イメージだけが妙に生々しく残っ
ている。ひどく残酷な夢。
 重いほどに汗をかいていた。着替える気力さえない。
 ぼんやりと起き上がり、鏡を見てぞっとする。鏡のなかの自分が、一瞬別人に見えた。気のせいだろうか。
 窓の外は夕暮だ。どうして眠っていたんだろう。最近、すぐに眠くなる。疲れているのかもしれない。
「ああ……」
 ミリスは、ふと立ち上がった。
「今日は、レシィのお友達が遊びにきてくれる日だったわ……」
 呟いて、ゆっくりと玄関へ向かう。
 ──迎えにいってあげよう。早くお友達が来れば、きっとレシィも喜ぶ。ライアは、あれからずっと、レシィと仲良く遊んでくれている。きっと、友達は多い方がいい。その方が、楽しいはず──
 玄関の扉に手をのばす。
 開けようと、ノブに指先が触れたその時……扉が、開いた。
「すいません」
 見慣れた少年だ。
 長い棒を持った、陽気な……
 確か、レンとかいう名前の。
「どちらへお出かけですか」
 彼は、にっこりと微笑んだ。

「え……」
「こんにちは」
 ぬけぬけと満面の笑顔をうかべる怜に、ミリスは多少面食らったようではあったが、ワンテンポ遅れたものの、一応対応はした。
「え、ええ、こんにちは。また、パン屋のお仕事?」
 微笑する。一点の曇りもない、完璧な笑みだ。
 怜は、くるりと棒を回すと、深くお辞儀をしてみせた。
「いーえ。今回はね、非礼を承知で殴り込みにまいりました」
「なぐ……」
「冗談」
 さすがに、ミリスが怪訝そうに眉を寄せる。不信感を抱き始めたのだろう。
「あの……」
「ちょっとお邪魔してもいいですか?」
 また、さえぎられてしまった。
 いきなりいわれても困る、と断ろうとするが、怜は真っすぐにミリスを見ている。何か、
断りづらい雰囲気だ。
「怪しいものじゃないです」
 といわれても、そうそう信じられるわけがない。なおさら怪しい。
 やはりミリスは、断ることにした。
「あの……悪いんだけど、今からレシィの──妹の、お友達を迎えにいくところなの。またの機会にしてくれるかしら」
「あ、そうなんですか。じゃあ、だめですねえ」
 怜が、しょんぼりと肩を落とす。ミリスがあわてて、本当にごめんなさいね、と付け加えた。
「いえ……ならしょうがないよね。俺も、レシィちゃんと逢いたかったんだけど。お友達を迎えにいくんじゃあね……」
 意外にあっさりと引き下がるのかと思えば、やはりそんなつもりはさらさらないようだった。でもね、ともう一度口を開く。
「むりやり連れてきて殺しちゃうような友達の作り方は、良くないんじゃない?」
 一瞬──ミリスの表情が、凍り付いた。
「なあに……?」
「ライアちゃん、元気?」
「最近は、逢っていないけど……」
「前もそういったねー、ミリスさん」
 今度は声に出して、怜は笑う。
「でもそれ、嘘でしょ」
「どうして、嘘だなんて思うの?」
 哀しげに、ミリスは首を左右に振った。何をいっているのかわからない。
「だって知ってるもん」
「何を知ってるの?」
「多分全部」
「私、人に知られて困るような隠しごとはないわ」
 はい、と、怜はうなずいた。
「そういうと思ってました」
「……?」
「だからね」
 冷たく、笑う。
「俺の相棒が、今あなたのお家を探険中なんだよね」


「レシィ=セィパス?」
 天界を統べる悠良の母親は、目をみはるほどの速さでリストをチェックしていった。
 やがて、その目が一点で止まる。
 残酷にも、その言葉は紡ぎだされた。
「死んでるわね、一年前に」


「やめて……!」
 階段を駆け上がり、レシィの部屋であったその場所に飛び込むと、ミリスは力一杯叫んだ。
 しかし、もう遅かった。
 莉啓はその部屋で、見てしまっていた。
 幸せな空間。不自然なほどに、幸せな。
 ふたつの死体が、絵本を囲んで座っている。
「ああ……!」
 ミリスは、二人をかばうように抱き締めた。
「ごめんなさいね、びっくりしたでしょう……」
 決して、莉啓や怜にいっているわけではない。明らかに、二人の少女にいっているのだ。
「あなたたちは、何も気にせずに遊んでいていいのよ」
 笑う。曇りのない笑顔。
 そんなものは最初から、不自然であるだけなのに。
「出ていって。じゃましないで。せっかく仲良く遊んでいるのに、どうしてじゃましようだなんて思うの」
 怒り、というよりも、むしろ哀れみを含んだ目で、ミリスは莉啓を見た。いつの間にか、
その後ろには怜が立っている。
「おねがい、じゃましないであげて」
 懇願する……本人が、気づいていない。
 この二人の少女の存在を、信じている。
 ただ冷たいだけの。白骨化した死体と、決して動くことのない真新しい死体。ライアの真っ赤なワンピースが、妙に浮き立って見える。
 幸せな空間。しかしそのすべてが、不自然だった。
「あなたは……」
 莉啓がそっと、声を発した。
「あなたはずっと、一年間ずっと、レシィさんと二人暮しだったんですか」
 あえて、二人暮しといういい方をする。何のためらいもなく、ミリスはうなずいた。
「ええ」
「ずっとこうしてきたんですか」
「ええ」
「ずっと……こんな……!」
 こんな哀しい暮らしを。
 ミリスは、首を傾げた。
「何を、いっているの?」
 わかっていない。
 何もわかっていない。
 彼女は頭から、そのすべてを拒絶していた。
「ミリスさん」
 怜が、横から顔を出した。
 ほんのなんでもないことを尋ねるかのように、問う。
「彼女は、誰ですか」
 ミリスは、レシィを見た。
 レシィであったものを、見た。
「……だあれ?」

 

 あれは、いつのことだっただろうか。
 あの子と一緒に町に出て、あの子と一緒に食事して、あの子と一緒に笑っていた。

 大切な、大切なあの時間は……

 
 アレハ、イツノコトダッタダロウ。

 

「レシィ……?」
 ミリスは、自分が涙を流していることになど、気づいてはいなかった。
 ただ、必死に虚空を見つめた。虚空のなかに、何かを探し求めていた。
「レシィが……レシィがいない……どうして、お姉ちゃんから離れちゃだめだって、あれほど……」
 探す。手探りで。もう、何も見えない。
 自然に逆らって手に入れたかりそめの命は、機能してはくれなかった。
「レシィ……」
 どんなに探してもいない。
 あれはいつのことだっただろう──幸せだった。家族四人で、毎日一つの食卓を囲んで、食事をした。レシィは少しどじなところがあって、いつも何かをこぼしてしまって、私はそれを拭いてあげて、両親が事故で死んで、二人きりになって、でもレシィは泣かなくて、一生懸命泣かなくて、いつも笑って、笑っていたから……
 ……だから。
 私は、何をした?
「レシィがいない」
 そこで初めて莉啓と怜の存在に気づいたかのように、ミリスは彼らに目を向けた。
 必死にはいより、すがる。
 涙は出ない。涙を出す機能が動かない。
「レシィはどこ?」
 莉啓は、無表情のまま、いった。
「それは、あなたが知っているだろう」
「知らない。私は知らない。レシィの居場所なんて……」
 嘘だ。
 わかっている……しかし、認めるわけにはいかなかった。
 それは、自らの存在の否定と同じだ。
「レシィちゃんは、ここにはいないよ」
 静かに、怜が口を開いた。
「最初から思い出さなくちゃ、居場所なんてわかんないでしょ」
「最初って、いつ?」
 わかっている。
「レシィはどこ?」
 わかっている。
「レシィは……」
 でもそれは。


 視界が、真っ白になった。
 すさまじい光。しかし決して不快なものではなく、やさしく、包み込むような……天の、
光。
 そこには、レシィがいた。
 彼女は笑っていた。
 いつだって、ミリスに負担をかけまいとして、笑っていた。
 そんなことはわかっていた。
 でもそれはどうしようもなく、ミリスにとっての重荷であった。

「レシィちゃんは、あなたが大好きだったのよ」
 光の中で、悠良はミリスを抱き締めた。
「わかってあげて」
「わかって……た、のに……」
 でも。
 いくら頑張っても生活は良くならなかったから、それでもレシィは笑っていたから、レシィを殺して自分も殺した。
「でも、死ねなかった……あの子を殺すことは出来ても、私は死ねなかった……! 何度心臓を貫いても、死ねなかったのよ……!」
 無意識のうちの思いが、下界にその魂を縛り付けたのだ。どうすることも出来ない後悔の念と、否定とが。
「私が……」
 崩れる。
 その身体は、役目を果たし、朽ちる。
「私が殺したの……」
 少しずつ、彼女の輪郭が薄れていった。天へと昇華する……一年というときを経て、やっと。
 消えていく。

   ──ごめんね、レシィ……


 そしてすべてが、自然へと還った。

 

 

***

 

 


「グッタイミングだったねー。悠良ちゃん」
 屋敷に立ちすくんだままで、怜は、辛うじて明るく声を発した。
 どうもいまいち、放心状態から抜け出せない。
「お母さまにレシィちゃんの魂の居場所を探してもらって、そこにいって連れてきて、下界に姿を映し出すのは結構大変だったわね……まあ、この私に不可能はないのだけど」 「ああ」
 なぜか深々と、莉啓がうなずく。おそらく、不可能はない、のあたりに賛同の意を示したのだろう。
 まあ何でもいいけどね、と、怜は空を仰いだ。
「……ミリスさんの魂、ちゃんと天界にいったかな」
「大丈夫よ」
「すごい自信だね……」
「当然でしょう?」
 髪をかきあげて、悠然と悠良は笑む。
「もう、未練なんてないもの」
 莉啓がそっと、呟いた。
「全部認めて、全部許すことが出来れば、大丈夫だよ」

 


 そうして、聖者たちはまた旅立つ。
 彷徨える魂の元へと。

 

 

 



 

 

 

────────────────
1997年執筆。
読んでいただき、ありがとうございました。

 

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