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そこは、清らかな白の支配する土地。
一歩その地に足を踏み入れたものは、すべてを理解し、そしてすべてが最初に戻る。
最初に──何もない、白紙の時に。
彼らはここで、もうひとつの『一生』を過ごす。今までと何も変わらないようで、決定的に違う一生。そうして、次に生まれる時を待つのだ。
『天界』──人々は、この地をそう呼ぶ。
「お久しぶりです、お母さま」
悠良は、真っ白な床に、そっとひざまずいた。
深々と一礼し、眼前にいる女性を見やる。
よく知っている──どこまでも絶対的であり、天界を支配する天女。
すべてを統治する彼女こそ、悠良の母親であった。
「よく戻りましたね、悠良」
真っ白な衣服に身を包んだその女性は、静かに微笑んだ。微笑んでから、周囲の人間をやんわりと部屋から追いやる。
そして彼女は、ソファに座るよう悠良を促した。
「お母さま……」
「逢いたかったわぁ、悠良ちゃん!」
何かをいおうとした悠良をさえぎって、彼女は歓喜の声をあげた。
悠良が、瞬時にして渋面になる。これだから、この母親とは逢いたくなかったのだ。
「悠良ちゃんったら、全然帰ってきてくれないんだもの。どう、やっぱり下界でのお仕事は大変? 辛かったら、いつでも莉啓ちゃんか怜ちゃんに泣きつきなさいね」
「お母さま、実は……」
「ああ、でも嬉しいわ。こうして逢いにきてくれるなんて。どうしましょ、今晩は悠良ちゃんの好きなお料理にしなくっちゃ」
「お母さま……」
「それにしても、綺麗になったわねえ。悠良ちゃんは昔から綺麗だったけど!」
「…………」
「? どうかしたの?」
「話を、聞いて、いただけますかっ?」
とうとう憤慨して、悠良は強い調子で叫んだ。
悠良の母親は、目を瞬かせ、やがて笑いだす。
「変わってないわねぇ……。お母さん、安心したわ。それで、何の頼みがあるの?」
やはり初めからすべてお見通しであったくせに、この対応だ。むかむかと、悠良は眉を寄せる。
それでもなんとか落ち着くと、彼女はこう切り出した。
「天界の最高権力者としてのあなたに、お願いがあるの」
「ママって呼んでいいのよ?」
拗ねたように母親が口を挟むが、悠良は完全に無視した。
「天界に来た魂の名前のリスト、あなたなら持っているでしょう? 探してほしい名前があるのよ」
「天界に……って、生きてるか死んでるかってこと? 別に、そんなのは簡単だけど。なんていう名前の方?」
うきうきと聞き返してくる母親に、悠良はきっぱりとその名を告げた。
「レシィ=セィパス」
ミリスは、夢の中にいた。
ふと気がつくと、目の前には自分が立っていた。
もうひとりのミリスは、ミリスにいった。
──私はここにいてはいけないの。
それはひょっとしたら、独り言なのかもしれなかった。しかしミリスは、応えた。
「どうして?」
──ここに居場所がないから。ここはいるべき場所じゃないから。
「どうして?」
もう一度問う。もうひとりのミリスは、悲しそうに笑った。
──だってあなたはもう……
「だって、私はここにいるもの」
──でもだめなの。それは嘘。
「嘘つきはあなた」
──私はあなたよ。
「レシィは、私を必要としているもの」
──誰?
「レシィは、私を」
──誰?
「レシィは……」
──聞こえない。
「聞きたくないだけでしょう?」
──そう、聞きたくないだけ。
「どうして?」
──どうしてだと思う?
「どうして?」
──あなたと同じよ。
もうひとりのミリスは笑った。
ミリスは、絶叫した。
うっすらと……かすかに、目を開ける。
また、悪夢を見てしまった。内容は覚えていないが、イメージだけが妙に生々しく残っ
ている。ひどく残酷な夢。
重いほどに汗をかいていた。着替える気力さえない。
ぼんやりと起き上がり、鏡を見てぞっとする。鏡のなかの自分が、一瞬別人に見えた。気のせいだろうか。
窓の外は夕暮だ。どうして眠っていたんだろう。最近、すぐに眠くなる。疲れているのかもしれない。
「ああ……」
ミリスは、ふと立ち上がった。
「今日は、レシィのお友達が遊びにきてくれる日だったわ……」
呟いて、ゆっくりと玄関へ向かう。
──迎えにいってあげよう。早くお友達が来れば、きっとレシィも喜ぶ。ライアは、あれからずっと、レシィと仲良く遊んでくれている。きっと、友達は多い方がいい。その方が、楽しいはず──
玄関の扉に手をのばす。
開けようと、ノブに指先が触れたその時……扉が、開いた。
「すいません」
見慣れた少年だ。
長い棒を持った、陽気な……
確か、レンとかいう名前の。
「どちらへお出かけですか」
彼は、にっこりと微笑んだ。
「え……」
「こんにちは」
ぬけぬけと満面の笑顔をうかべる怜に、ミリスは多少面食らったようではあったが、ワンテンポ遅れたものの、一応対応はした。
「え、ええ、こんにちは。また、パン屋のお仕事?」
微笑する。一点の曇りもない、完璧な笑みだ。
怜は、くるりと棒を回すと、深くお辞儀をしてみせた。
「いーえ。今回はね、非礼を承知で殴り込みにまいりました」
「なぐ……」
「冗談」
さすがに、ミリスが怪訝そうに眉を寄せる。不信感を抱き始めたのだろう。
「あの……」
「ちょっとお邪魔してもいいですか?」
また、さえぎられてしまった。
いきなりいわれても困る、と断ろうとするが、怜は真っすぐにミリスを見ている。何か、
断りづらい雰囲気だ。
「怪しいものじゃないです」
といわれても、そうそう信じられるわけがない。なおさら怪しい。
やはりミリスは、断ることにした。
「あの……悪いんだけど、今からレシィの──妹の、お友達を迎えにいくところなの。またの機会にしてくれるかしら」
「あ、そうなんですか。じゃあ、だめですねえ」
怜が、しょんぼりと肩を落とす。ミリスがあわてて、本当にごめんなさいね、と付け加えた。
「いえ……ならしょうがないよね。俺も、レシィちゃんと逢いたかったんだけど。お友達を迎えにいくんじゃあね……」
意外にあっさりと引き下がるのかと思えば、やはりそんなつもりはさらさらないようだった。でもね、ともう一度口を開く。
「むりやり連れてきて殺しちゃうような友達の作り方は、良くないんじゃない?」
一瞬──ミリスの表情が、凍り付いた。
「なあに……?」
「ライアちゃん、元気?」
「最近は、逢っていないけど……」
「前もそういったねー、ミリスさん」
今度は声に出して、怜は笑う。
「でもそれ、嘘でしょ」
「どうして、嘘だなんて思うの?」
哀しげに、ミリスは首を左右に振った。何をいっているのかわからない。
「だって知ってるもん」
「何を知ってるの?」
「多分全部」
「私、人に知られて困るような隠しごとはないわ」
はい、と、怜はうなずいた。
「そういうと思ってました」
「……?」
「だからね」
冷たく、笑う。
「俺の相棒が、今あなたのお家を探険中なんだよね」
「レシィ=セィパス?」
天界を統べる悠良の母親は、目をみはるほどの速さでリストをチェックしていった。
やがて、その目が一点で止まる。
残酷にも、その言葉は紡ぎだされた。
「死んでるわね、一年前に」
「やめて……!」
階段を駆け上がり、レシィの部屋であったその場所に飛び込むと、ミリスは力一杯叫んだ。
しかし、もう遅かった。
莉啓はその部屋で、見てしまっていた。
幸せな空間。不自然なほどに、幸せな。
ふたつの死体が、絵本を囲んで座っている。
「ああ……!」
ミリスは、二人をかばうように抱き締めた。
「ごめんなさいね、びっくりしたでしょう……」
決して、莉啓や怜にいっているわけではない。明らかに、二人の少女にいっているのだ。
「あなたたちは、何も気にせずに遊んでいていいのよ」
笑う。曇りのない笑顔。
そんなものは最初から、不自然であるだけなのに。
「出ていって。じゃましないで。せっかく仲良く遊んでいるのに、どうしてじゃましようだなんて思うの」
怒り、というよりも、むしろ哀れみを含んだ目で、ミリスは莉啓を見た。いつの間にか、
その後ろには怜が立っている。
「おねがい、じゃましないであげて」
懇願する……本人が、気づいていない。
この二人の少女の存在を、信じている。
ただ冷たいだけの。白骨化した死体と、決して動くことのない真新しい死体。ライアの真っ赤なワンピースが、妙に浮き立って見える。
幸せな空間。しかしそのすべてが、不自然だった。
「あなたは……」
莉啓がそっと、声を発した。
「あなたはずっと、一年間ずっと、レシィさんと二人暮しだったんですか」
あえて、二人暮しといういい方をする。何のためらいもなく、ミリスはうなずいた。
「ええ」
「ずっとこうしてきたんですか」
「ええ」
「ずっと……こんな……!」
こんな哀しい暮らしを。
ミリスは、首を傾げた。
「何を、いっているの?」
わかっていない。
何もわかっていない。
彼女は頭から、そのすべてを拒絶していた。
「ミリスさん」
怜が、横から顔を出した。
ほんのなんでもないことを尋ねるかのように、問う。
「彼女は、誰ですか」
ミリスは、レシィを見た。
レシィであったものを、見た。
「……だあれ?」
あれは、いつのことだっただろうか。
あの子と一緒に町に出て、あの子と一緒に食事して、あの子と一緒に笑っていた。
大切な、大切なあの時間は……
アレハ、イツノコトダッタダロウ。
「レシィ……?」
ミリスは、自分が涙を流していることになど、気づいてはいなかった。
ただ、必死に虚空を見つめた。虚空のなかに、何かを探し求めていた。
「レシィが……レシィがいない……どうして、お姉ちゃんから離れちゃだめだって、あれほど……」
探す。手探りで。もう、何も見えない。
自然に逆らって手に入れたかりそめの命は、機能してはくれなかった。
「レシィ……」
どんなに探してもいない。
あれはいつのことだっただろう──幸せだった。家族四人で、毎日一つの食卓を囲んで、食事をした。レシィは少しどじなところがあって、いつも何かをこぼしてしまって、私はそれを拭いてあげて、両親が事故で死んで、二人きりになって、でもレシィは泣かなくて、一生懸命泣かなくて、いつも笑って、笑っていたから……
……だから。
私は、何をした?
「レシィがいない」
そこで初めて莉啓と怜の存在に気づいたかのように、ミリスは彼らに目を向けた。
必死にはいより、すがる。
涙は出ない。涙を出す機能が動かない。
「レシィはどこ?」
莉啓は、無表情のまま、いった。
「それは、あなたが知っているだろう」
「知らない。私は知らない。レシィの居場所なんて……」
嘘だ。
わかっている……しかし、認めるわけにはいかなかった。
それは、自らの存在の否定と同じだ。
「レシィちゃんは、ここにはいないよ」
静かに、怜が口を開いた。
「最初から思い出さなくちゃ、居場所なんてわかんないでしょ」
「最初って、いつ?」
わかっている。
「レシィはどこ?」
わかっている。
「レシィは……」
でもそれは。
視界が、真っ白になった。
すさまじい光。しかし決して不快なものではなく、やさしく、包み込むような……天の、
光。
そこには、レシィがいた。
彼女は笑っていた。
いつだって、ミリスに負担をかけまいとして、笑っていた。
そんなことはわかっていた。
でもそれはどうしようもなく、ミリスにとっての重荷であった。
「レシィちゃんは、あなたが大好きだったのよ」
光の中で、悠良はミリスを抱き締めた。
「わかってあげて」
「わかって……た、のに……」
でも。
いくら頑張っても生活は良くならなかったから、それでもレシィは笑っていたから、レシィを殺して自分も殺した。
「でも、死ねなかった……あの子を殺すことは出来ても、私は死ねなかった……! 何度心臓を貫いても、死ねなかったのよ……!」
無意識のうちの思いが、下界にその魂を縛り付けたのだ。どうすることも出来ない後悔の念と、否定とが。
「私が……」
崩れる。
その身体は、役目を果たし、朽ちる。
「私が殺したの……」
少しずつ、彼女の輪郭が薄れていった。天へと昇華する……一年というときを経て、やっと。
消えていく。
──ごめんね、レシィ……
そしてすべてが、自然へと還った。
***
「グッタイミングだったねー。悠良ちゃん」
屋敷に立ちすくんだままで、怜は、辛うじて明るく声を発した。
どうもいまいち、放心状態から抜け出せない。
「お母さまにレシィちゃんの魂の居場所を探してもらって、そこにいって連れてきて、下界に姿を映し出すのは結構大変だったわね……まあ、この私に不可能はないのだけど」 「ああ」
なぜか深々と、莉啓がうなずく。おそらく、不可能はない、のあたりに賛同の意を示したのだろう。
まあ何でもいいけどね、と、怜は空を仰いだ。
「……ミリスさんの魂、ちゃんと天界にいったかな」
「大丈夫よ」
「すごい自信だね……」
「当然でしょう?」
髪をかきあげて、悠然と悠良は笑む。
「もう、未練なんてないもの」
莉啓がそっと、呟いた。
「全部認めて、全部許すことが出来れば、大丈夫だよ」
そうして、聖者たちはまた旅立つ。
彷徨える魂の元へと。
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