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あれは、いつのことだっただろうか。
あの子と一緒に町に出て、あの子と一緒に食事して、あの子と一緒に笑っていた。
大切な、大切なあの時間は、夢であったのか。
違う。
では、自分のしたことも夢なのか。
違う。
ならば、すべて本当のことなのか。
……違う。
あれは、いつのことだっただろうか。
あの子は笑っていた。
あの子は笑っていた。
だからわたしは。
「ねえ、どうして動かないの?」
あれは、いつのことだっただろうか。
あれは、いつの
アレハ
*
「……わからないな」
軽くソファにもたれかかりながら、青年はそう呟いた。短い黒髪の、端正な顔立ちをした青年だ。両端の前髪だけが不自然に長いが、それもまた似合っている。
紙の束をテーブルに投げ出し、それきり黙ってしまった青年を訝しんでか、その向かいに腰かけていた少女が、大きな瞳を彼に向けた。
「どうかしたの?」
毅然とした口調だ。
青年は、赤い髪の少女──十六歳ぐらいだろう──の方を見やり、先程とはうって変わったやわらかい笑みをうかべる。
「……いや、今回のターゲットのことだ。気にすることはない。ただ、この女性は何に不満があるのだろうか、ということをね」
「そうやってすぐに考え込むのは悪いくせね、
それはもっともだ。しかし、と青年は苦笑した。
「理由がなければ、こんなことにはならないだろう? 俺には、この女性にはそんな理由なんかないような気がしてね」
自然の法則に逆らってまで、とどまる理由など。
「でも、理由があったからこうなってるんでしょう。事実だわ」
強情な彼女のいい分に、青年はもう一度苦く笑った。その通りだ、とでもいいたげに。 もしこの場に自分の相棒がいても、きっと彼女と同じことをいうのだろう。ただし、どうということもないような、軽い口調で。
想像すると、自然と笑いがこみあげる。
「……莉啓? 何よ、怒ったような顔をしたり、笑ってみたり。気味が悪いじゃないの」
「いや……まあ、たしかに変かな。ちょっと、怜の奴はちゃんとやっているかと、不安になってね」
少女は、頬を膨らました。
「ちゃんとやっているに決まっているでしょう。怜は、異常なほどにふざけた奴だけど、腕は一流よ。相棒のことぐらい、信じてあげたらどうなの」
ふざけてるって、それはちょっと心外! こんなに頑張ってるのに!
そんな声が聞こえてきそうだ。
そこまで想像して、青年──莉啓は、今度こそ本当に不安になってきた。
大丈夫だろうか。自分の仕事など軽く忘れて、どこかで遊びほうけている相棒の姿が、容易に想像できる。
同じことを考えたのか、今度は頼りない眼差しで、少女は莉啓に問いかけた。
「……ねえ、莉啓」
いいたいことは何となく伝わってきたが、それでも莉啓は先を促す。
「なんだ?」
「怜は、ちゃんとやっているかしら」
莉啓はあえて、少しずれた答え方をした。
「ちゃんとやっていなければ、半殺しだな」
朝の町は、一日の中でもっとも賑わう。
人々は、一日分の食料を調達し、住人たちの元気な顔を見て、その日の始まりを感じる。いつもと何も変わらない、平和な一日の始まりを。
そして今日も例外ではなく、町は活気にあふれていた。
「おはよう、ミリス。今日も、おいしいパンが焼けてるよ」
パン屋の主人は、人のよさそうな笑みをうかべ、たった今入ってきた客にそう声をかけた。ミリス、と呼ばれた女性もまた、微笑する。
「お早よう。そうね、じゃあ、くるみのパンをもらおうかしら」
「それだったら、ちょうど焼けたところだよ。いい香りがするだろう?」
手際よくパンを袋に入れていくのを見て、ミリスは少しあわてたようにいった。
「ごめんなさい、ひとつ、多めに入れてくれるかしら。レシィの大好物なの、そのパン」 驚き、パン屋の主人は、思わずその手を止めた。
「レシィ……妹さんかい? たしか、妹さんはパンが嫌いとかいってなかった? だからあんたは苦労してるって。パスタとか、作らなきゃなんないから」
「あら、良く覚えててくれたわね。そうなの、でもね、この前そのパンを食べさせてみたら、おいしいって」
「おや、うれしいねえ」
本当にうれしそうに笑み、おまけだよ、といいながら、主人はパンを袋につめた。パンが嫌いだった子が、ここのものを食べて好きになる。まさに、パン屋冥利につきる、という気分だ。
「はい、安くしとくよ。妹さんによろしく」
「ありがとう。あの子、喜ぶわ」
ミリスはもう一度微笑み、銀貨を何枚か渡すと、ゆっくりとした足取りで店から出ていった。すぐに、パン屋のなかにも、ほかの店からミリスを呼ぶ声が聞こえてくる。彼女は、町の人気者なのだ。
「すいませーん」
と、ほとんど入れ違いに、軽快に扉を開けて、ひとりの少年が店に入ってきた。いや、青年だろうか。少年と青年の中間、といった感じの風貌だ。手には、自分の背よりも長い棒を持っており、それがまるで身体の一部であるかのように、妙にその少年と合っている。
見たことのない顔──この町の住民ではない。
「いらっしゃい。おや、あんた旅人かい?」
こんな小さな町では、どこに誰が住んでいるかなど、みんな知っている。にもかかわらず、その言葉に彼は大げさに驚いてみせた。
「すごい! すごいねー、なんでわかんの? その通り、旅のひと。んでもって、ここのおいしそうな匂いに引き寄せられて、ふらふらーっとやってきたわけ」
「お、うれしいこといってくれるね。見る目がいいじゃないの、坊や」
「坊や……ああ、坊やかー。ちょっと傷つくかなー」
本気で傷ついた顔をしてから、彼はぐるりとパン屋の内部を見渡した。どれもこれも、おいしそうだ。
「
大声で独り言をいって、パンを三つ、注文した。これとそれとあれ、というアバウトな注文に呆れながらも、パン屋の主人は忠実にそれを選び出す。
「連れがいるのかい? まあ、この町に旅人がやってくるのは、別にめずらしくもないけどね。あんたも、この先にある王都をめざしてるんだろう?」
「いえべつに。いや、連れはいるけど。俺たちは、なーんとなくのぶらり旅だから。んでも、さしあたっての目的地はここだったりするんだよねー」
「へえ?」
深く追求はせずに、主人はそう小さく声をあげただけだった。少年の方も、別に追求してほしかったわけでもないので、そのまま銀貨を払ってパンを受け取る。
しかし彼は、すぐに出ていこうとはしなかった。
「ね、おばちゃん。俺の前にこの店にいた、すんごい綺麗なひとってさ、どんなひと?」 一瞬きょとんとした店の主人だったが、すぐにおもしろそうに笑む。
「ミリスだろう? 初めてあの子を見たら、みんなそういうんだよ。綺麗だからねえ。でも無駄だよ。ミリスは、性格は気さくだけど、一介の旅人なんかには手の届かないお嬢様だからね」
「えー、そうなの? 綺麗なひとって、みんなそんなんなんだよねー、ああ悲しい! でも、怜くんはあきらめないぞ! ──というわけなので、どういうひとか教えてよ。アタックするからさ」
パン屋の主人の思い違いをいいことに、そういうことにしておいて、少年──怜は、懇願した。
主人は、苦笑する。
「ま、教えるだけならね。お客さまだし、どうせ無駄だし。……そうだねえ、とにかく、やさしいいい子だよ。町のはずれの、お屋敷に住んでるんだけどね。確か、二年前に、ご両親が事故で亡くなったんだ。それからは、妹さんと二人暮しみたいだけど、一体誰が助けてやってるんだか、とにかくお金はまわってきてるんだろうね。そんなに、お金に困ってる様子もないし。……ああ、でも、あそこの妹さんが、一年ぐらい前から病気になっちゃってね。もう家から一歩も出てないんじゃないかな。だから、結構苦労してるんだろうねえ、あの子も」
「ふむ……なるほど。薄幸の美女、という感じだね。これはやっぱり、誰かがそばにいて助けてあげなきゃね。よし、燃えてきた!」
怜は、大げさに拳を握り締め、瞳を輝かせた。しっかりと、薄幸の美女に恋する少年、になりきっている。
本当の目的は、もっと別のところにあるのだが。
「じゃね、おばちゃん。いろいろありがと、また来るから!」
いって、彼はあっという間に出て行った。来たときとは裏腹に、台風のように騒がしく音をたてて。
そして、またすぐに客が訪れる。忙しいこの時間だ。暇なときなど、ほとんどない。 だから店の主人は、そんな騒がしい旅人のことなどはすっかり忘れてしまうのだった。「二年前に、両親が事故で死亡……ね」
パンにかぶりつき、不敵な笑みを浮かべつつ、怜は呟いた。
暗い空間に、彼女はいた。
ひっそりと静まり返った背の高いホールの正面には、そびえたつ女神像、そしてステンドグラス。有無をいわせぬ神々しさは、幾重にも折り重なった光に照らしだされ、その魅力を増す。
聖堂──教会だ。
ミリスは目を閉じて、ただ、立っていた。他に人のいない、奇妙なほどに静かな場所を選んで。
ただ、祈るわけでもなく。
「すみませーん」
突然、背後から、異様に明るい声がかけられた。
驚いて振り返る──何やら長い棒を持った少年が、立っている。
訝しんで、ミリスは眉を寄せた。
「何か……?」
「あ、怪しいものじゃないんですけど。えっとですね、これ、あなたのじゃないかと思いまして」
差し出された手には、見覚えのある布袋がひとつ。まさか、とミリスは、あわてて自分の荷物を探った。
ない。硬貨を入れておいた袋が、どこにも。
「パン屋さんの前に落ちてたんだけど、おばちゃんに聞いたら、たった今出て行った女の人のやつだっていうからさ。違います?」
うそ八百を並びたてる青年に、実はたったいま彼自身によって財布が盗まれていたことにはまったく気がついていないミリスは、頬を紅潮させた。
「ご、ごめんなさい、わたしったら……! 全然気がつかなくて……」
「いえいえ、誰だって一回はやるでしょ、こういうの。はい、どーぞ」
「ありがとう」
受け取って、今度はしっかりとそれを袋にしまう。一体、どうして落としてしまったのだろう。
「あの」
顔をあげて、気づく。
いない──たった今まで、ここに立っていた青年が。
どこにも。
「……え……?」
袋を探るが、今度はちゃんと入っている。
何か、予感がしたのに。
変わるかもしれないと。
ゆっくりと女神像に目をやり、もう一度、ミリスは目を閉じた。
ただ、祈るわけでもなく。
立ちつくして……行なわれるのは、静かな懺悔。
──わたしは、どうしてここにいるんだろう。
「はぁーい! 任務完了お疲れ怜くん! いっやあ、今日もご苦労さま!」
けたたましく部屋の扉を開け放ち、怜は大声でいい放った。
反応がない。
「あれ? どしたの、二人とも?」
壁に棒を立てかけて、ソファに座り込む。むりやり割り込まれ、黒髪の青年──莉啓は、
顔を歪めた。
「……相変わらず元気だな」
「そりゃあね。俺のモットーだし」
率直にいいきられてしまったので、ますます莉啓が苦い顔になる。
「怜! いいご身分ね、まさか、何のお土産もないとはいわせないわよ。お土産を渡して、
さっさと状況の報告をなさい」
見事な赤い髪をかきあげながら、悠良が手を差し出した。ぽんっと、怜がその手の上に自らの手を重ねる。
「お手?」
「くだらないわね」
「はいはい、お土産ぐらいちゃんと買ってきたってば」
おとなしく、パンを渡す。莉啓にも投げつけてから、怜は大きくのびをした。
「悠良ちゃんもさ、なんか買ってきてほしいなら、俺が出かける前にそういえばいいだろ。
そしたら、ちゃんと買ってくるのにさ」
「いわれなくても、当然のことでしょう」
「あ、それ銀貨一枚ね」
「……っ!」
悠良が、顔を引きつらせる。やれやれと、莉啓は助け船を出すことにした。
「それで……ターゲットとは、接触できたのか?」
「まあね、意外にあっさりと。家族構成としては、妹との二人暮し。両親ともに二年前に死亡。んでもって、非の打ち所のない優しげなお姉さんで、だけど、毎日教会に通っている模様。妹さんが病気で、看病におわれる毎日。……こんなもん?」
「相変わらず支離滅裂とした状況報告だが、いいだろう。上出来だ」
うっわー、と、怜が声をあげる。慣れたものだが、それにしても毒舌だ。
「それで? やっぱりそうなの?」
パンを片手に、悠良が問いかける。怜は、肩をすくめた。
わかるわけがない……だからこそ、財布に発信機までつけたのだ。
「いつものことだ。これから、コンタクトをとっていけばいい」
冷然と、莉啓がいう。
そう、いつものことだ──もう、いやというほどに『仕事』はこなしてきた。
二年前のあの日から。三人でここに降りてきた、あの日から。
天界より使わされた聖者たちに課せられる、仕事。
「……一筋縄じゃいかないって、気がするわね」
悠良の言葉に、敏感に反応するわけでもなく、莉啓がゆっくりと顔を上げた。
どうして、と聞くだけ無駄なのはわかっている。
「そんな、感じがするもの」
それは、天女としての直感か。
部屋の中が、静まり返る。
その沈黙を破ったのは、やはり、怜の軽快な一言だった。
「ま、なんとかなるでしょ」
実際、なんとかしなくてはどうにもならないのだ。
莉啓が、静かに嘆息した。
「さしあたっては……怜はこのまま、ターゲットに接近してみてくれ。俺は、町で情報を集める」
「私は何をすればいいのかしら」
「悠良は……」
一瞬口ごもる莉啓の代わりに、怜が嬉々としていった。
「毎日料理を作って帰りを待つ! って、どう?」
ぎろりと、悠良と莉啓が、その目を怜に向ける。
「この私が?」
「悠良にそんなことをさせる気か?」
「……いいです。悠良ちゃんはおとなしくしててくれれば」
同時に非難され、あっさりと怜は意見を翻した。たしかに、この高貴な少女にそんなことをさせるのは、恐れ多い。
「ま、なんにしろそういうことね……」
あきらめのこもった怜の言葉に、未だ鋭い二人の視線が突きささるのだった。
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