佐橋圭三とTバック
佐橋圭三は、その小さな布きれを前に、完全に動けなくなってしまっていた。
ソファの上に、無造作に放り出されている、それ。
重量にすれば、一グラムもないだろうと思われる。
色は赤。ひどく鮮やかな赤だ。
その布きれを、なんと呼ぶのかは知っていた。どういうものなのかという知識もある。
ただし、お目にかかるのは初めてだ。
「T、バック」
抑揚のない声で、呟く。
佐橋圭三、五十六歳と三ヶ月。
この歳にして、未知との遭遇だ。
「落ち着け、落ち着くんだ」
無意識に声に出し、大げさなほどの仕草で首を左右に振る。
状況の整理を試みた。
ローンを払い終えたばかりの一軒家、掃除の行き届いたリビングルーム。ソファの上には、問題の物体。
本日は日曜、快晴だ。妻は買い物に出ている。大学生の息子は、いつものようにまだ寝ているのだろう。
佐橋邸に暮らすのは、圭三と妻と、息子の三人。
単純に考えて、この赤い物体は、そのうちの誰かのものだ。
圭三のものではない。
息子のものであるとも考えにくい。
ということは──
「美千恵の、か?」
疑問の形になった。
出会ったころはスレンダー美人であった妻。二十年前に息子を産み落として以降、腹部が引っ込む気配はなく、いまではメタボまっしぐらの、妻。
働いているわけでもなく、出歩く趣味を持っているわけでもない。息子の高校時代のジャージを着て、一日家で韓流ドラマを観ているような妻だ。
その妻の持ち物だとでも、いうのだろうか。
圭三は、恐る恐る手を伸ばした。
赤い布に指先が触れるというところで、他にだれもいないことなどわかりきっているのに、周囲を見回してしまう。
あるはずのない監視カメラの存在まで疑った。
そうして、数十秒の後、手に取った。
目眩がした。
それは、Tバックと表現すればよいのか、Tフロントと表現すればよいのか──ともかくも布地の少なさは異常と思われるほどだった。
女性ものの下着の値段など考えたこともないが、おそらくは値の張るであろう、総レースの赤い下着。
初めて触れる神秘を、まじまじと観察する。
これを、妻が。
想像しようとしてみるが、どうしてもできない。そんな妻の姿など、見たことがないのだ。
そうだ、何かの間違いだろう。何かの景品だとか、通販で間違えて届いてしまったとか──そう結論づけようとする。
本当に? ──圭三の心のなかで、名探偵圭三が囁いた。
それは本当に、何かの間違いか?
美千恵の持ち物ではないのか?
職場の田中がいっていたじゃないか、妻が不倫していたって。巷では熟年離婚なんてもんが流行っているんだ。もう別れたいという気持ちを込めて、わざと不倫が発覚するように、美千恵がここに置いたんじゃないのか──?
ピンポンと、不意にインターホンが鳴った。
圭三は一気に現実に引き戻され、慌ててTバックをソファの上に戻す。いたずらを目撃されたような、妙にばつの悪い気分になって、打ち消すように咳払いを一つ。
わざとゆっくり玄関へ向かって、戸を開けた。
「こんにちは、毎度ありがとうございます! 魚六です!」
はつらつとした好青年が、白い歯を輝かせて立っていた。
ジーンズにシャツ、青いキャップがいやに似合う、ひょろりと背の高い青年だ。顔は、美形の部類。若いころの自分に似ているなと、圭三はそんな感想を抱く。
現れたのが圭三であったことに、青年は驚いたようだった。しかし、すぐに満開の笑顔で会釈した。
「あ、ご主人ですか、はじめまして。奥さんにはいつもお世話になってます」
その言葉に、圭三は落雷を受けたかのように打ち震えた。
彼の中の名探偵が、瞬時にある名推理を組み立てた。
奥さん、という卑猥な響き。
いつもお世話に、という婉曲表現。
脳内を赤いTバックが占める。
「こちら、ご注文いただいた刺身盛りです。奥さんはいつもツマまでおいしいっていってくださるんで、サービスしてありますよ」
いまにも沸騰しそうな圭三の脳裏に、昼下がりに乱れる男女が描かれた。ああ、そんな、いけないわ。いいじゃないですか、サービスしますよ。
「妻がおいしい、だと……?」
怒りのあまり、しぼり出すような重低音になった。青年は笑った。
「自信ありますよ、新鮮でおいしいツマです」
「新鮮だと! そんなバカな話があるか!」
「新鮮ですよ。毎日のように食べてるんで、おいしさだって保証します」
「ま、ま、ま、毎日だとう?」
「は?」
さすがに、青年が眉根を寄せる。
時を同じくして、軽快に電話が鳴った。なおも怒鳴りつけようとしていた圭三は、吸い込んだ息をむりやり飲み込む。そこで待っていろ、といい捨てて、リビングへ戻った。
「……もしもし」
不機嫌に受話器を取る。聞き慣れた妻の声が、飛び込んできた。
「あ、お父さん、あたし。魚六さん、もう来ちゃった? それまでには帰るつもりだったんだけど、買い忘れ思い出しちゃって」
「いま来てる」
「あらあら、ごめんなさい。タンスの上にお金あるから、それで払っといて」
ふわふわとした、平和そのものの声に、圭三は悔しいような情けないような、なんともいえない気分になった。
気づいていないとでも思っているのだろうか。
「いいから、すぐ帰ってこい。話をつけようじゃないか」
「だめよう、ないと困るもの。あなたは必要ないでしょうけど。もうお店に戻ってるから、ティーバッグだけ買ったらすぐ帰るわ」
「Tバックだと!」
「紅茶ないとはじまらないのよ。だいじょうぶ、コーヒーは家にあるから」
ぶつ、と電話が切れてしまった。
圭三はわなないた。
この上、まだ買うというのか。
ないと困るとまでいうのか。
結婚して三十余年、近頃では確かに、愛だのなんだのはどこかにいってしまって、惰性のような夫婦関係であったかもしれない。
けれど、夫婦とはそういうものだ。
家族なのだから、それでいいではないか。
先ほどまでの勢いは、受話器の向こう側に吸収されてしまったかのようだった。力なく歩いて、タンスの上の封筒を手に取ると、待たせてあった青年に代金を払う。
「俺は、認めないぞ」
口にしてしまったら、余計に惨めな気分になった。
妻と結婚して、息子が生まれて。家庭を顧みずにあくせく働いて。定年までもう少しというところで、この仕打ち。
泣きたくなってきた。
それでも──圭三の心に、愛する妻の笑顔が咲く。
それでもやはり、あいつには幸せでいて欲しい。
本気で、本当に本気で、選んだ男だというのなら。
この男も、真剣だというのなら。
「これからも、妻を、頼む」
信じられない言葉が、口から滑り出た。
青年は笑った。
「任せてくださいよ! ご主人もお好きですねえ」
「やっぱり許さん! 帰れ──!」
圭三のセンチメンタルは、実に刹那の出来事に終わった。
蹴飛ばす勢いで青年を追い出すと、再び怒りに支配され始める。
認めない、認めないぞ──拳を握りしめて、リビングのソファへ戻る。こうなったら全面戦争だ。家族会議だ。離婚協議だ。
証拠としてTバックを没収しておかなければと思った。隠されて、いい逃れされたのではたまらない。
「父さん、なに怒ってるんだよ」
ソファには、寝癖満載の息子がいた。
あくびをして、圭三を見上げてくる。
「二階まで声響いたよ。起きちゃったじゃん。──あ、それ、魚六の刺身? やった、今日ってなんかのお祝いだっけ?」
圭三の耳に、息子の言葉は届いていなかった。
彼の目は、無造作に投げ出された息子の右手の、その中にあるものに、釘付けになっていた。
赤い、Tバッグ。
なぜか、息子が握りしめている。
「お、おまえ、それ……」
「ああ、これ? バイト先のビンゴ大会で当たっちゃってさ」
「お、おまえの?」
圭三の全身から、力が抜けた。
なんと愚かな勘違いをしたのだろう──思わず、苦笑する。
そうだ。
現実は、そんなものだ。
どこにでもある平和な家庭。笑い話にしかならない、幸せな勘違い。
奈落に落っこちた後の浮上は、喜びを伴うどころかあまりにばかばかしくて、圭三は笑った。
そのうちに、戸の開く音。ただいまあ、と声がして、美千恵が帰ってきた。
「ごめんごめん、お金、わかった?」
「ああ、ちゃんと払っておいた」
「そう、ありがとう。じゃあ、お昼ご飯の準備をするわね」
「オレ、その前に朝飯」
「なにいってるの! もうお昼よ」
三人の笑い声が重なる。
圭三の目頭が熱くなった。
なんて幸せなのだろう。そうだ、自分はこんなにも幸せではないか。
「おいおい、買った物を放り出して。カバンも戻して置かないと、また探すぞ」
そそっかしい妻に、関白風を吹かせる。我が物顔で、近所のスーパーのロゴの入った紙袋とカバンを持ち上げると、片づけておいてやろうとそんなことまで考える。
実に清々しい気分で歩き出そうとして、ふと、見えてしまった紙袋の中身に、目を奪われた。
圭三は、息を飲んだ。
それは小さな布きれだった。
重量にすれば、一グラムもないだろうと思われる。
色はパッションピンク。目が覚めるほどに鮮やかな、パッションピンクだ。
おそらくは値が張るであろう、総レースの……──
了