人魚と人間 

 高い位置に、太陽。
 光は水面を照らし、洞窟の中まで仄かな色を届ける。
 彼の隣には、彼女。
 出会ったその日から、ずっと変わらない光景。
「今日もとてもいいお天気。ねえ、海の中も、あたたかい?」
 飽きもせず彼の隣に腰を下ろし、彼女は笑った。
 ああ、と彼はこたえた。そこには、何の感慨もなかった。
 初めて出会ったのは、何年前のことになるのだろう。その頃、彼女はまだ少女だった。
 話す内容はごく他愛のないもので、昨日のできごと、今朝食べたもの、教会で知り合った友人の話――そんな小さなことばかりだった。それはいまでも、変わらない。
 彼はいつも、そこにいた。
 岩壁から見下ろせる小さな岩の洞窟は、遠い昔から彼の居場所だった。
 少女が嬉しそうに話すので、ただ、耳を傾ける。
 彼にとっては刹那の、彼女にとっては長い年月がすぎ、少女がいつしか美しい娘になっても、二人の日々は変わらなかった。
「あなたの昨日は、どんな一日だったの?」
 いつものように瞳を輝かせ、彼女が聞く。彼はちらりと彼女を見た。
「ここに、居た。君に会ったな」
「あら」
 彼女はつまらなそうに眉を上げ、それからすぐに笑い出す。
「そんなことは知っているわ。わたしの知らないことを、知りたいのよ」
「何も」
 彼は首を振る。それは無理な注文だった。
 彼と彼女とでは、生きるときが違っていた。
 彼は海に住まう人魚で、彼女は陸に住まう人間──彼女にとっての一日は、彼にとってのほんの刹那。
 彼は、水の中で長い尾を揺らした。彼女はきっと、今日もこうして、ここにいるつもりなのだろう。そして明日も、来るつもりなのだろう。
 それはすでに彼らの日常だったが、それでも彼には、いささか不可解だった。
「君は、私の肉を欲しているのか?」
 単純に疑問に思い、問いかける。彼女は苦笑した。
「その質問、何度したか知っている? わたしは、あなたと一緒にいたいから、ここに来ているの、それだけよ。人魚の肉を食べれば不老不死になるなんて、そんな言い伝えを信じてやってくる人間なんて、もう誰もいないでしょう」
「ああ、そうだ──」
 彼は瞳を伏せた。幾度なく繰り返された問答だ。返答を得て初めて思い出す。
 古くは肉を求め、あるいは災厄の元凶と忌み嫌い、人間が訪れることも少なくなかった。だが、人間にとって人魚の肉が不老長寿の妙薬であるように、人魚にとっては人間の生き肝こそが刹那を得る魔薬。それを知ってから、人間は寄りつかなくなった。
「いつのころからか人間は、私たち海に住まう者を、畏れるようになった……生き肝を食らわれるのでは、と。刹那を得たいを願う愚か者など、私たちのなかにはいないというのに」
「わからないわ。永遠に飽きて、刹那を願う人魚だっているかもしれない──ねえ、あなたは、願ったことはないの?」
「ない」
 きっぱりと、彼は答えた。
 もっと古くには、彼は海でさまよう人間を導く役割を果たしていた。そのころから幾つの人の生を見てきただろう──それらは決して彼の心を動かすことはなく、人間の男に恋をしたマーメイドの物語など、彼の理解の範疇を超えていた。
 そうして、この娘の行動も。
 彼にとっては、まったく理解できないものだった。
「人間は、迷い、過ちを犯す。そして、後悔する。それは私たちにはないものだ。私たちには、後悔は存在しない」
「愛も」
 悲しそうな声で付け加えられる。彼はうなずいた。
「そう、愛も。それは私たちには、決してわからないものだ」
 彼女は立ち上がった。
 金色の髪をふわりと風に揺らし、空を見上げる。
 洞窟の天井はぽっかりと口を開け、日の光を迎え入れていた。太陽は彼らを見下ろし、光を落とす。
 愁いを帯びた彼女の横顔と、髪に飾られた白い花に、彼は目を奪われた。花もまた、ひとときの命──ひょっとしたら、だからこそ美しいのかもしれないと、かすかな思い。
「でも、ここからあそこは、とても遠いわ」
 彼女は、両手を伸ばした。太陽を、あるいは雲を、空をつかもうというのか、小さな手を握りしめる。空気が指の隙間から漏れ落ちるのが、彼には見えた。
 遠いとして、それがどうしたというのか。彼女が何を言わんとしているのかわかるはずもなく、彼は黙る。
「わたしはあなたに、笑ってほしいの」
 彼女は彼に向き直った。膝をつき、海水に濡れてなお艶やかな彼の黒い髪と、人間では持ち得ない鋭いヒレの形をした耳とを、静かに撫でる。
「笑って欲しいのよ」
「笑うことなどたやすい」
 頬の筋肉を動かすことなく、彼が答える。
 彼女は微笑んだ。
 彼は彼女の頬に触れた。幼いころからずっと変わらない、しかし確かに様々な感情を秘めるようになった瞳を、まっすぐに見つめた。
「だが、興味を持つようになった。君のせいだ。玉響を生きる命でありながら──いや、だからこそ、君はひとときごとに成長していく。それは、人間だからこそ」
 彼女は目を逸らさなかった。熱いまなざしに見入られ、ほんのりと頬を赤らめる。それでも彼を見つめ返した。
「私がふとよそ見をしているうちに、消え失せるほどの儚い命。だが、まさにその間に、君は成熟していく。私は、君が生きる世界、人間の世界というものに、触れてみたいと思うようになった──これは、どういうことなのか、実のところよくわからない」
「それは、興味、好奇心……そして、憧れだわ」
「憧れ」
 彼女の言葉を、彼はそのまま繰り返した。
 永久を生きる、誇り高き人魚が、恐ろしく脆い人間に憧れるということが、果たして本当にあるのだろうか。
 だが、憧れという言葉を聞いてしまえば、否定することなどできなかった。
 それは、ひどく明確に、彼の心情を射ていた。
 彼は、憧れていた。
 小さな少女から、あっという間に大人の女性へと変貌した彼女の、触れる世界。
 人間という存在、そのものに。
「あなたが望むなら、わたし、何だってするわ」
 彼女はひどく優しく笑って、彼の髪に口づけをした。
「あなたが、笑ってくれるなら」
 彼は、迷わなかった。
 ならばとうなずき、彼女を抱きしめる。
 彼女が差し出すそのままに、生き肝を食らった。


 彼は、二本の足で立ち上がった。 
 まるで、地面そのものが揺らいでいるかのようだった。よろめき、岩壁に手をつく。
 血を流し横たわる彼女を、見下ろした。もう決して動くことのない、あまりにも脆い命。
 なぜ、人間の世界に憧れたのか。
 なぜ、触れてみたいと思ったのか。
 なぜ、そんな愚かなことを願い──そうして、食らってしまったのか。
「これが」
 声は、初めて流す冷たい何かに、震えた。
 人間となったことで、知った。
 人でなかったときには、知り得なかったもの。
 それは、後悔と──
「これが……」
 続きは声にならなかった。
 空を、見上げる。依然として、遠い空。彼女がそうしたように、両手を伸ばし、握りしめる。
 その手の中に何を得たのか、彼は理解した。
 拳をほどき、崩れ落ちる。
 赤く染まった彼女の胸に顔をうずめ、抱きしめた。
 キスを落とし、微笑む。彼女が望んだように。
 そうして二人で、音もなく、光の海へ飛び込んだ。