戻りの金時計 

 

 失恋した。
 泣いて、泣いて、泣いた。
 世界が今日で終わるのかと思った。
 きっと明日は来るけれど、
 わたしは未来へ行けるだろうか。

       

 決意した。
 最後に一つ、賭けをしよう。
 それから世界を、終わらせよう。
 どうせこんな世界なら、
 未来がなくてもかまわない。

 

 ***
    
 うつむいて肩を丸めて、ショートボブを緑色のマフラーで巻き込んで、美優は一人、歩いていた。高校からの帰り道、空はもう暗く、雪でも降りそうなぐらいに冷え込んでいる。
 周りなど見えていなかった。
 いっそこのまま車に轢かれてしまいたい。ちょっとだけ怪我をして、救急車で運ばれたりして、たくさんのひとに心配される、とか。良いかもしれない。そんな夢みたいなことをぼんやりと考えながら、帰路を行く。
 ふと、道の真ん中に、光を見つけた。
 それは吸い込まれるように、視界に入ってきた。
 金色の、小さな時計。
「……キレイ」
 真っ赤に泣きはらした目にも、それは美しく映った。
 アンティーク調の懐中時計。このまま路上にあったのでは、車に轢かれてしまうかもしれない。少ないとはいえ、この路地にも一応、車は通る。美優は少し考えて、時計を拾い上げた。
 美優の通う高校はすぐそこだ。誰かの落とし物かもしれないが、戻るのは躊躇われた。高校生の持ち物にしては洒落すぎている気もする。でも先輩なら、きっと似合うだろうなあ。いままでの癖で、そんな思いがよぎった。
「貸してあげようか、それ」
 不意に、声がかけられた。
 美優は息を飲む。声の主を捜す必要はなかった。さっきまでは誰もいなかったはずの場所、美優の目の前に、彼は立っていた。
「使うといいよ。君にはその権利がある」
「あ、これ……あなたの? ごめん、そんなつもりじゃ」
 そんなに物欲しそうにしていただろうか。美優は慌てて、時計を差し出す。
 しかし少年は、そっとその手を押し返した。
 美優と同じぐらいの年齢に思えたが、制服は着ていなかった。タキシードか礼服か、こんな路上にはそぐわない格好に、赤いマフラーを巻いている。髪も瞳も漆黒で、マフラーだけが鮮やかな赤だ。
「いまは君のだ。君にしか、使えない。君はいま、ひどく悲しんでいるね?」
 美優は目を見開いて、それからすぐに気づく。いまはもう泣いていなくても、ひどい顔だということは自覚していた。なんだか恥ずかしくなって、笑顔を作る。
「そういうの、気づいても気づかないふりしてほしいな。悲しいよ、振られちゃったんだもん」
 もしかして、誰かから聞いたの? しかし少年は、薄く笑って首を振る。
「時計を、手にしているからさ。『過ぎた自分』に『悲しんで』いる者にしか、この時計は存在し得ない」
「……なに?」
 何やら難しいことをいわれた。これはきっと、ファンタジーな世界の人だ。つまり、そういう精神の人。
 見透かしたような態度なのに、不快ではなかった。美優自身、だれかに聞いてもらいたい気分だった。それは身近な友だちよりも、いま初めて会った見知らぬ相手の方が都合が良い。
 学校で、友人たちは散々慰めてくれたけれど。だからやめとけっていったのに。彼女らの言葉が蘇る。平気なふりで手を振って、結局は暗くなるまで一人、ずっと泣いていたのだ。
「良くある話だけどさ」
 少年を見つめながら話すわけにもいかず、美優は時計を撫でながら、そう前置きをする。
「天文部の先輩でね。本当に好きだったの。中学のころからずっとの、片思い。妹みたいにかわいがってくれて、いつも近くにいた。だから……」
 思い出す。先輩の目が、見たことないぐらいにきらきらした、あの時。
 先輩が恋をした瞬間も、美優は隣にいた。
 でも、なにもできなかった。
「ダメだってわかってたし、どうせ無理だよってみんな止めたけど、ちゃんと告白したかったの。結果は予想通り。玉砕」
 少年は静かに笑っていた。目はひどく冷たいままで、笑みを形作った口元を開いて、形ばかりに眉を下げる。
「かわいそうだったね」
 まるで感情のこもらない声でいった。
 それから声を低くして、美優に顔を寄せる。
「──過去を、変えたい?」
 囁いた。
 時計に、触れる。
「これは、戻りの金時計。ときを戻ることができる、特別な時計。君は過去の君自身のもとへ戻って、過ぎた自分と接触することができる」
 考えてみなよ。
 無限の可能性さ。
 少年は続ける。
「『こんなに悲しいのなら、告白なんてしなければよかった』」
 甘い声で、言葉を重ねた。
「『結果がわかっていたのなら、もっと上手に立ち回れたはず』」
「わたし、そんなこと──!」
「可能性の話さ」
 美優は黙った。いつの間にか、少年の言葉を疑っていない自分がいた。
 引き込まれる。
 彼の世界に、その言葉に。
 手にした、時計に。
「なんだって、できるとも……──ああ、でも、気をつけて。戻った君はなんだってできるけれど、あまり好き放題をしてしまったら、『いま』が歪んでしまうから」
 あえて、そんないい方をして。
 少年は、美優の手をそっと包み込んだ。
「君の手に、無限がある」
 さあ、使え。
 さあ、犯せ。
 堕ちていけ。
 囁きが、美優の胸に、染みていく。
「過去の、わたしに……」
 美優は、目を閉じた。
「それなら、わたし」
 やりたいことなら、一つだけ、ある。
 少年が、奇妙に笑んだ。


 時計が、回る。
 最初はゆっくりと、やがて形そのものを変えて。
 過去へと回る。
 歪んで歪んで、円を描いて集束し。
 遡る。


 まだ明るい校舎前。
 美優が走っていた。
 緊張した面持ちで、文化棟へと向かっていた。
 告白しに行くところだ──
 美優には、すぐに分かった。
 文化棟には、部室がある。
 先輩は、いつだって誰よりも早く来て、手製のプラネタリウムを触っている。
 胸の高鳴りが、聞こえてくるようだった。
 数時間前、今日の午後のことなのに、ずっと昔のことのようで、数分前のことのようで。
 見つめる美優の胸が、ざわついた。
 まったく癒えていない傷跡が、悲鳴をあげていた。
「あの!」
 美優は、美優を呼び止める。
 美優が振り返る。
 張り詰めた、今にも切れてしまいそうな糸が、見える気がした。
 さっきまでの、自分だ。
 まるで処刑される前のような、顔で。
 こちらを見ている。
 
 少年が、空から見ている。
 空そのものとなって、見下ろしている。
 さあ犯せと、冷たい瞳で。
 そうすれば、終わるのだからと。

 いまの自分は、どう映っているのだろう。もう一人の自分として見えているのだろうか。それとも、ほかの何かになっているのだろうか。
 驚いているというよりは不思議そうな顔で、美優は美優を見ていた。
 決意していた。
 美優は、息を吸い込んだ。
「応援、してるから!」
 精一杯、叫ぶ。美優の目が、驚きに変わる。
「だから、頑張って! ……っ、頑張って、ね!」
 驚きでいっぱいだった目が、その顔が、ゆっくりと形を変える。
 やがて、笑顔ではじけた。
「うん!」
 きらきらと、輝いて。
 ありがとうと笑って。
 美優が、走っていく。
 残された美優も、笑った。
 最後にもう一粒だけ、涙が落ちる。
 これでもう、本当に、悔いはない。


 白昼夢だったのだろうか。
 美優は、夜の道に立っていた。
 少年はいない。
 手には、小さな金時計。ときを、正しく刻んでいる。




「興ざめだね」
 電信柱の上から美優を見下ろして、少年はため息を吐き出した。
「せっかく、壊しちゃおうと思ったのにさ」
 そういって、ひどく嬉しそうに微笑んで、少年は闇夜へ飛び立った。