十年越しのノストラダムス 


 二〇〇九年、七の月──

「やほー、久しぶり。いよいよだね。ネネちゃんに聞いた?」
 一人、
「あ、もしもし。三ツ藤先生に……──って荒木かよ」
 二人、
「封筒のことだけどさ、どうなってんの?」
 三人、
「あら、よそ行きの声ね。いよいよ七の月に……ああ、私で四人目なの?」
 四人、
「思わず電話しちゃったよ、どうなのどうなの、封筒のことだけど……」
 五人、
「用件? いわなくてもわかるでしょ」
 六人目。

 ──十日の、午後六時半。


「マコト先生、バイバイー!」
「さよならー!」
「はい、さようなら」
 女子生徒が手を振って、にこりと笑ってそれに返す。荒木マコトは手にしたプリントで風を送りながら、誰もいない廊下を行く。メガネをずらし、手の甲で汗を拭った。
 生徒は皆帰っただろう。そもそも、原則は六時下校だ。日が長くなると、生徒だけでなく教師も基準があいまいになる。外を回って追い出し作業をしているうちに、あっという間に三十分──オトナになったら時間の流れが遅くなるとは、誰の言葉だったか。
 私立棚ノ上高校は、午後七時からは、民間の教育団体に校舎を明け渡していた。働いている人間を対象とした数々の講座が開かれている、ということらしい。マコトにはさして興味のないことだ。
 職員室へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
 きびすを返し、踊り場へ戻る。三階まで、階段を上った。
 とっくに施錠されていなければならない文化棟三階は、ほとんどの窓が開け放たれていた。どすん、と音が響く。ああもう、と苛立ちを含んだ声。
 マコトは肩をすくめると、声の主に会いに行った。
「まだやってるんですか、三ツ藤先生」
 声をかけると同時に、開いたままの戸を叩く。部屋の主に呆れているのか、諦めているのか、図書準備室の戸は疲れたような情けない音をたてた。カンコン。本が廊下まではみ出そうとしていて、とても閉められる状況ではない。
「やってんのよ! 信じらんない! 今日はさっさと帰るつもりだったのに!」
 応えたのは、小柄な女教師だった。国語担当であり図書室の主でもある、三ツ藤ネネ。若い、というよりも幼く見えるが、マコトよりも六つ年上のベテランだ。ちゃんとしていればそれなりに綺麗なはずだが、長い癖毛はいまでは振り乱されている。鬼神のごとく。
「どうして、ないかな!」
 足を露出したミニスカートを気にするそぶりもなく、豪快に部屋の中を行き来して、立ったり座ったりを繰り返していた。時折、戸棚や机をあさっているが、目的のものが出てくる気配はない。
「今朝も、昼も、同じ状況だったような気がしますが……いや、もうちょっとマシだったかな」
 惨状を見渡して、マコトは眉根を寄せた。これではまるで、泥棒にでも入られたかのようだ。
「追い出し終わったんでしょ、じゃあ手伝ってよ、荒木ク……先生。そもそもあなたが持ってきた話よ、『将来の夢封筒』を開封しようだなんて。はっきりいって忘れてたっての。勘弁してよ」
「クン、でいいですよ。わざわざ学校まで電話があったんですから、伝えないわけにはいかないでしょう」
「そういうのはストップ、もみ消しなさい。聞いちゃったらあたしの責任になっちゃうじゃないの」
 なんと勝手な言い分だろう──呆れるのを通り越して、マコトは思わず笑ってしまった。
 職員室の机の悲惨さから容易に想像できることだが、整理整頓というものに縁遠いこの教師は、五年前に生徒から預かったものすら、どこかへやってしまったらしい。
『将来の夢封筒』──その名の通り、将来の夢を綴った紙を入れた封筒だ。五年前、彼女の受け持ちだったクラスの全員が書き記した。
「六人から電話がありましたよ。俺は一応、三ツ藤先生は忘れているんじゃないかといっておきましたが」
「それはいっちゃいけないでしょ、ちょっと。ヒトとしてどーなの。ていうか六人! ヒマね! 先生びっくりだわ!」
「俺もびっくりです。いいから探してください」
 ネネはいまいましげな顔をしたが、すぐにそっぽを向いた。必死さだけは伝わってくるので、真剣に探しているのは間違いないのだろう。それが実を結ぶかどうかは、また別の話だ。
 マコトは、窓の外を見やった。赤く染まっている。やがて日が暮れる──それはこの学校にとっては、タイムリミットを意味していた。
「そろそろ出ないと、夜校で使うかもしれませんよ、図書室」
 うしろ姿に話しかけるが、彼女は振り向かない。
「図書室は開放するでしょうけど、準備室ならだいじょうぶ」
「窓は?」
「……忘れてた」
「閉めてきます」
 マコトは苦笑して、準備室を出た。周辺の住民への配慮ということで、七時以降は窓を閉め切る決まりとなっている。どうせネネのことだから、自分がやるとでもいってそのまま放置していたのだろう。
 想像するまでもないことをぼんやりと考えて、マコトは一つ一つ窓を閉めていく。

 ふと、錯覚に陥った。
 ブレザーを着ていた。
 背後で笑い声。
 女子たちは思い思いにオシャレをして、男子はいつも通り、それでも和服を持ち出すヤツもいて。ジュースを配合してそれらしく見せた『ワイン』をグラスに注ぎ、いらっしゃいませ、などとおどけて。文化祭とは名ばかりの、お祭り騒ぎ。
 ずっとこうしていたいよね、と誰かがいった。
 オトナになったら時間の流れが遅くなっちゃうの、それってつまんないってことでしょう?
 本当にバカね、と彼女が笑った。
 たとえば五年前、いまがこんなに楽しいなんて、想像した?
 進まなきゃ見えないの。
 だから、進みなさい。
 高校生だって夢を見なさい、できるだけバカバカしい、ナニソレってやつがいいわ──

「あった──!」
 ほとんど雄叫びに近いその声に、マコトは我にかえった。着ているものはあたりまえにブレザーなどではなく、手は窓にかけられている。
 錯覚だ。幻だったのかもしれない。
 急いで閉めて、声の元へ戻った。
「あったあった、あったわ、荒木クン! あたしって天才、ここじゃないかなと思ったのよねー」
 ネネが茶の大きな封筒を抱きしめ、悦に入っている。天才ならもっと早くに見つけているだろう、などと無粋なセリフは胸にしまい、よかったですね、とマコトは言った。
「あー、これで帰れる。じゃないか、片づけ……はまた今度でいいや。荒木クンからいっといてよ、電話の子たちに。ばっちり用意してあるから、開封はいつでもいいよって」
「みんなで集まるんじゃなかったんですか? 二〇〇九年、七の月なんだから」
「うわあ、そういう話なんだっけ」
「見事に忘れてますね」
 ネネが大げさに肩を落とす。マコトはこっそりと笑いながら、とりあえず足下に散らばっている本や資料の類を拾い上げた。
「ドアが閉められる程度には、片づけましょう」
「ええー、いいよ、休憩しようー」
 年甲斐もなく唇をとがらせるネネに、マコトは今度こそ笑った。五年経っても、少しも変わらない。
 出入り口付近の荷物だけを準備室内に押し込むと、どうにか戸を閉める。夜校の生徒が入ってくるとも思えなかったが、少し考えて、カギを閉めた。
 本の類を追いやって、形ばかりのソファに腰を下ろす。
「じゃあ、休憩しましょう。俺も見たいです、それ。開けていいですか?」
「え、いま?」
 ネネがきょとんと目を丸くする。うなずくと、あっさりと隣に座ってきた。ハイ、と封筒を差し出す。
 どうも、と返して、マコトは封筒を受け取った。
 二〇〇四年度・三年一組、と走り書きされている。五年前の卒業生の、『将来の夢封筒』。この中に、全員分の封筒が入っているのだ。
 タイムカプセルなんて大げさなものじゃなくて、ちょっとした夢を書こう──言い出したのは、他でもなく当時の担任その人だったはずだ。ノストラダムスが十年遅れて来るかもしれないから、世界が無くなっちゃうより早く……開封は五年後の七月だね、そんなことを笑顔でいっていた。
 封筒を開ける。
 小さな白い封筒が詰め込まれる中、大きな茶の封筒が目を引いた。
 マコトはそれを取り出した。
 写真だ。
「へえ、そんなのも入れてたんだ! 懐かしいねえ」
 ネネが身を乗り出し、のぞき込んできた。
 それは、文化祭のときのものだった。
 いつも一緒だった七人と、担任の国語教師の姿。五年前の三ツ藤ネネは、誰よりも幼く見えた。教師になってまだ二年目だったはずだ。髪も癖毛のショートで、なにかに気をとられているのか、カメラ目線ですらない。子どものような、好奇心に満ちた顔。
「変わってない」
 思わずつぶやくと、ネネが写真を取り上げた。
「どっかの誰かさんはずいぶん変わっちゃって。まあ、メガネってのは変わらないけど。……そういえば急に思い出した、ノストラダムス、来るかな? そういう話だったよね? 二〇〇九年七の月に開封ってさ」
「ずっと思ってたんですが、来るのは恐怖の大王であって、ノストラダムスじゃないですよ」
「うっそマジで」
 ネネが目を見開く。どうやら本気で勘違いをしていたようだ。
 マコトは苦笑した。いつの間にか、すっかり日が落ちていた。この場所にいるからといって、教師でいる必要も、ましてやいまさら生徒でいる必要もなかった。
 写真にあった六人の顔と、電話の声をかみしめる。
「俺のはすぐに開けろって言われました、あいつらに。そういう電話でした。七の月に入ったんだから、もういいだろって」
 ネネが首をかしげた。それから写真を見て、指さし確認で数える。
「電話の六人って、この六人? あんたたち、まだつるんでんの?」
「まあ、それなりに」
 ネネは破顔した。転げそうなほど楽しそうに、笑い出す。ドラマみたいね、などと他人事のような言葉。五年経ったいまでも共にいられるのは、あのころ誓ったからなのだと、わかっていないに違いない。進んでいかなければわからない──そんなあたりまえのことに、気づけずにいた高校時代。光を見つけられたのは、確かに彼女のおかげだった。
 マコトの進路は、あのときに確定した。
 封筒に、小さな紙を入れたあの日。
 五年後、開封するその瞬間に、未来の始まりを見据えたのだ。
「開けて、いいですか?」
「自分のでしょ? いいんじゃないの。あとでヌケガケ呼ばわりされても知らないけど。──あ、もしかして、学校の先生になりたい、とか書いてある?」
「どうでしょうね」
 的はずれな推理に、マコトは目を細める。荒木マコト、と五年前の文字で書かれた封筒を手に取ると、そのままネネに差し出した。なにもかもが偶然だと思っている、六つ年上の女性の目を、まっすぐに見据えて。
「じゃ、開けてください」
 ネネは何度もまばたきをしている。意味がわからない、という顔。
 実は、とマコトは続けた。
「これ、先生への手紙なんです。俺のだけ、特別に」
「手紙! ウソ、泣ける!」
 まだわかっていない。それでも白い手が封筒を受け取り、まあいいかとマコトは苦く笑った。もとより、長期戦は覚悟の上だ。同じラインに並ぶまでに、五年もかかってしまった。
 できるだけバカバカしい夢がいい──そうはいっても、マコトのそれは本気だった。
 真剣に、誓った。
 前に進んで、たどり着く先。


 ネネが封を開ける。白い紙を、取り出す。
 みるみるうちに目が大きく見開かれ、頬がかすかに染まった。
「そういうことなんで、よろしくお願いします」
 そういって、マコトはネネの手を取る。硬直しているのをいいことに、赤い唇に自身のそれを寄せる。五年越しの想いを伝えきるのには、こんなものでは到底足りないけれど。
 ソファに押し倒され、状況の把握にも至らない様子で、いまだ呆然とした表情のまま、ネネはされるがままに口づけを受け入れる。マコトの手が動いたところで、ハードカバーの本を手に取った。
「──十年早いわ、ノストラダムス」
 そうして、角でマコトを殴りつけた。