復讐姫 

 鬼は腹が減っていた。
 食っても食っても満つることがない。
 すでに魚を三匹釣り上げてはいたが、それだけでは到底足らぬと思われた。
 やがて冬が訪れ、生き物はいっそうこの島から遠ざかる。
 そうなる前に、できる限りの食料を確保する必要があった。
 島に住まうのは鬼ただ一人。
 自らのことは自らの力のみで為す必要がある。
 しかし、だからといって、これほどの獲物を求めていたわけではなかった。
 うら若き娘。
 流れ着いたそれを、食すべきかどうか、思案する。
 どちらにしろ、海辺で丸焼きというやり方は好ましくない。
 加えて、弱った人間は風味が悪い。


 小屋に連れ帰り、湯を沸かす。
 釣り竿を壁に立てかけ、釣った魚を柱にぶら下げると、胡座をかいた。
 観察する。
 鬼の目の前に、横たわる娘。
 芥子色の着物に、臙脂の袴。同じ色の紐で髪を結い留めている。
 鬼には服装のいろはなど縁のないことだったが、それなりに上等なものなのだろうと思われた。海を流れてきたというのに、鮮やかな色彩は褪せていない。
 ふと、背にくくられた大きな風呂敷が、娘を締め付けているのではないかと思いついた。風呂敷に手をかけ、そっと結び目をほどいてやる。中身に興味がいったが、それよりも、娘が震えていることに眉をひそめる。
 濡れた着物でいては、弱る一方だろう。
 それでは風味が落ちていくばかりだ。
 まず、腰元の紐をほどいた。芥子色の着物を引き上げて、脱がせてやろうと背に手を回す。
 娘が、目を開けた。
 大きな瞳が、鬼を映す。鬼は無表情のまま、動きを止める。
「なにをする」
 娘は吠えて、鬼の手を振りほどいた。乱れた着物に気づいたのだろう。すぐに紐を拾い上げ、坐った状態で後ずさる。
 直後、驚いたように息を吸い込んで、鬼を指さし、そのまま止まった。震える口を開いて、そして閉じる。
 鬼には角がある。鋭利な耳は上を向き、肌質は岩のように硬い。
 人ではないことは、すぐにわかる。娘はその恐ろしさに、おののいたのだろう。
 鬼にとっては、娘の反応など慣れたものだった。怖がられないようになどと気を回す必要も、その気もない。
 鬼は正直に、答えた。
「食おうかどうしようか、考えていた」
「食う、だと」
 娘の声が、高くなる。より一層、胸元を隠すように、着物を寄せた。
「この私と、交わるというのか」
「茹でて、醤油で食おうかと」
 娘は黙った。顔を赤らめて、一度あさっての方向を向く。
「交わるというのは、どういうことだ」
 淡々と鬼が尋ねると、娘は一層顔を赤くした。
「煩い」
 一喝。鬼は顔をしかめる。
「食うなというなら、食わん。いやがる女を無理矢理食う趣味はない」
「いやがる女を無理矢理醤油で食らう趣味があったら、いっそ感服する」
 この娘は一体何に憤っているというのか。どう返そうかと思案していると、女は意を決したように、正面から鬼を見据えてきた。
「だが、食うなというのではない」
 意志のこもった強い瞳だ。鬼は思わず魅入られる。
 特別に人間を食料として好んでいるというわけではない。だが、この娘はうまそうだと、生気に満ちた姿にそう思った。
 きっと風味も抜群だ。
「食って良いのか」
「良い」
 ためらいなく、娘は頷く。
「但し、私が目的を果たしてからだ。私は一度死んでいる。いまの私は、目的のためだけに生きている。その目的が果たされれば、私の命は役割を終える。その後、存分に食うが良い」
 鬼は娘の言葉を頭の中で反芻した。
 なかなか難しいことをいう。
 鬼の寿命は五百を越える。いままで人間に会ったことも何度もある。だが、鬼を前にしても物怖じせず、逃げ惑うでも泣き叫ぶでもなく、食って良いとまで豪語し、条件を突きつけてきたのはこの娘が初めてだった。
 おもしろい、と思った。
 付き合ってやるのも悪くない。
「つまり、待てば良いのか」
「いや。協力してもらう。私の目的は、貴様の協力がなくては達成されない」
「なに」
 鬼は息を止めた。
 とっくに湯が沸いている。魚を茹でて食べようと思っていたのに、それどころではなくなっていた。
 協力しろといわれたのは、生まれて初めてだ。人里を離れて生きてきた鬼には、誰かと何かをするということ自体、経験がない。
 いや、遠い昔、まだ家族と共にいたころには、あったのかもしれない。しかしそんな記憶は、もうほとんど残ってはいなかった。鬼は長寿である代わりに、記憶力が極端に悪いのだ。
 だから、ほんの少し、胸が踊った。鬼は身を乗り出す。
「し、仕方がない。いいだろう、俺にできることなら、してやる」
 声がうわずる。娘は、好戦的に笑んだ。
「私には復讐を果たしたい相手がいる。一度死んだといったな。その際、耐え難い仕打ちを受けたのだ。そのお返しをしてやらないことには、死ぬに死ねない」
 見た目の可憐さからは想像のできない話だった。鬼はうなる。
「そいつに殺されかけたということか」
 娘は、風呂敷を大事そうに抱えていた。そこに何が入っているのか、鬼はわかったような気がした。
 おそらくは、復讐のための道具。
 そのための何かが、入っているのだ。
「いや、そうではない」
 娘は、首を左右に振った。
「幼少のころ、村の崖から落ちたのだ。よく人が落ちる危険な崖だ。注意をしているつもりでも、落ちてしまう。落ちて生きていたものはいない。私以外には」
「ふうむ」
 要領を得ない。死にそうになったことと、復讐したい相手とは無関係なのだという。それでは話が繋がらない。
「では、耐え難い仕打ちとはなんだ」
 もったいぶるようにして、娘は一呼吸を挟んだ。
「助けられたのだ」
「助けられた」
 鬼は考えようとしたが、おそらく考えても無駄だろうと、尋ねることにする。
「では、死にたかったのか」
「違う。助けられたこと自体には感謝している。だが私は、その後、その者の島にとどまり、恩返しをしたかった。もっというのならば……」
 娘の頬に朱が刺した。
 鬼は辛抱強く待つ。
「……共に暮らしたかった。私は恋に落ちたのだ。その者と添い遂げようと心に決めた。しかし、餓鬼が何をぬかすと一蹴され、村に送り届けられてしまったのだ。八つといえば立派な淑女であろう。それを餓鬼扱いだぞ。あまりに非道いとは思わぬか」
「ふうむ」
 鬼は答えかねた。
 人間でいう八つといえば、餓鬼といわれても仕方がないように思われたが、それを正直にいってはいけないのではないかと空気を読む。
「だから私は、十年待ったのだ」
 しかし、鬼の反応などどうでもよいとばかりに、娘は続けた。
 抱えていた風呂敷を、鬼と娘の間に置く。
「それは」
 鬼は息を飲んだ。
「そのための、道具か」
「そうだ」
 にやりと娘が笑う。
 結び目をほどき、中身を晒した。
 鍋。
 包丁。
 まな板。
 ついでに、枕。
「今度こそ、そばに置いてもらうぞ、鬼」
 鬼の目が豆粒のようになる。
 湯の沸いた音が、ひどく遠くで聞こえる。
「……それが、復讐か」
 答えはわかっていた。それでも聞かずにおれない。
 娘は得意げに、大きく頷いた。
「寿命が尽きたそのときには、食らうが良い。異存はないな」
 問いかけられ、鬼の頭に様々な返答が浮かぶ。
 だが結局のところ、ただそのまま、首を縦に振っていた。
 もう、娘を食おうという気はどこかへ消えてしまっていた。
 どういうわけか、鬼の空腹は、すっかりなくなっていたのだった。