散る散る花びらの下に 

 

 ねえ、桜が散ったわ。
 儚いものね、咲いているときなど、ほんのひととき。
 でもきれいよ、とてもきれい。
 知ってる? 公園の池にね、花びらが浮かんで、まるで神様のお庭みたい。
 次の日曜に見に行きましょうよ。
 恥ずかしいなんていわないで、手をつないで、ならんで歩いて行きましょうよ。
 ねえ、きっと、楽しいわ。


 芳恵は、桜を見上げていた。
 ひどく薄く色づいた花びらが、一枚、一枚と、舞い降りる。芳恵は人形のように立ちつくし、ただただ見上げていた。散りゆく桜。なんて綺麗。
 芳恵の隣を、幼子が走り抜ける。ゆったりとそのあとに続く、若い母親。遠くで笑い声。夏のように汗ばむ陽気を、疎むものなどここにはいない。
 幸せの詰まった公園。一年前、まだ桜が満開だったころ、智也とこの町に越してきた。この公園を支配する幸せのなかには、当時の自分のものだって含まれているはずだった。新しい町で始まる、輝かしいであろう新婚生活。両手いっぱいの期待と、些細な不安。
 それなのに、と芳恵は思う。
 しかし、それ以上、思考が続かなかった。
 それなのに、なに?
 私は、なにがしたい?
 私は、なにを求めている?
「綺麗」
 一時停止ボタンを押したみたいに、思いは途切れる。代わりに口から出た言葉は、その響きが皮肉なほどに優しい言葉だった。なんて綺麗な桜だろう。役目を終え、散っていく。
「あなたは、幸せだった?」
 ぼんやりと、問いを投げる。
 たくさんの笑顔が桜に向けられて、称賛されて、そうして散っていくのだ。羨ましい、とすら思った。
 この桜が散るのを見るのは、二度目だ。
 ひらひらひらひら。
 散りゆく花びら。積もりゆく花びら。
 私の心に。
 積もって、積もって、思いを覆い隠してしまう。
 芳恵は、目を閉じた。
 化粧気のない頬を、日差しが焦がす。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。
 芳恵は、思い出していた。
 一年前、こうして見上げた日のことを。
 綺麗だね、などという陳腐な言葉は、お互い口にしなかった。
 手をつないで、見上げる桜。ひらひらひらひら、散る桜。
 なんて幸せなのだろうと、心から思ったあの熱を覚えている。
 早く子どもが欲しいね、ねえ、男の子がいい、女の子がいい? ──そんなばかみたいなやりとり。
 結婚すれば、当然子どもができるものだと思っていた。
 出産したら、大変だけど保育園を探して、そうして働かなくちゃと、したり顔であれこれと考えて──現実は、子などできず、一日中家にこもって鬱々とした日々が過ぎ、他愛のない言葉もなにもかも、身体の深いところに積もっていった。
 恐らく自分がいけなかったのだろう、と芳恵は思う。
 もっと気軽に、口にすべきだったのだ。
 子ができないことに引け目を感じ、必要以上に良い妻を演じるのではなく。
いくつの言葉を、自分は飲み込んできたのだろう。
 ねえ、良い天気ね。
 ねえ、今日は暑かったわ。
 ねえ、この本がおもしろかったの。
 ねえ、お庭に小鳥が来たのよ。
 ねえ、お仕事はどう?
 ねえ、今度、お出かけしましょうよ。
 ねえ、デートがしたいわ。
 ねえ、
 ねえ、
 ねえ、
 
 寂しいわ。
 とてもとても寂しいわ。



 いつのまにか日が暮れて、芳恵は寒さに身震いをした。
 帰宅して、食事を作らなければと思いかけて、愚かな習慣に薄く笑う。
 どうせ、智也の帰りは日付が変わってからだ。忙しいといって、どんどん帰りの遅くなっていった夫。朝は逃げるように早くに出て行く。家にいる時間など、ほんの六、七時間だ。休日も職場の付き合いといって出かけるか、家にいても一日むっつりとパソコンに向かっている。
 芳恵は、赤く染まる坂を上った。中学校から合唱部の歌が聞こえてくる。子が生まれたらこの中学に通うのね、などというやりとりが思い出され、自嘲する。
 ハンドバッグから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。ウェルカム、と場違いに明るいボードに出迎えられても、なんの感動もない。一年前、自分で作ったウェルカムボード。あまりにもかわいらしい、花の散りばめられたデザイン。
「ただいま」
 ひとりごとのようにつぶやいた。
 灯りをつけず、リビングへ続く扉を開ける。
 そこでは、智也が待っていた。
 芳恵は、智也の隣に腰をおろした。
「ただいま」
 もういちど、つぶやく。
 お帰り、遅かったね。
 心配したよ。
 夕食は、なに?
 たまにはぼくが作ろうか。
 いつもありがとう、毎日のことだから、おいしいっていいそびれるけど、いつも本当においしいって思ってる。感謝してるよ。掃除だって毎日大変だろう?
 ありがとう。
 愛しているよ。
 君のことを、とても、愛しているよ。

 嘘みたいに幸せなメロディが流れてきて、芳恵は顔を上げた。
 充電器に突き刺したままの智也の携帯が、流行の音楽を奏でていた。
 緩慢な動作で立ち上がり、ストラップ一つないブルーのそれを手に取る。見知らぬ番号。ほとんどなにも考えずに、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『林智也さまでいらっしゃいますか? わたくし、青山旅館の竹部と申します。ゴールデンウィークのご予約の件で、お電話差し上げたのですが──』
 青山旅館。
 その旅館の名を聞いた瞬間、芳恵の全身が震えた。それ以上の言葉など、もう聞こえていなかった。
 青山旅館──知っている。忘れもしない。学生時代、つきあい始めて最初に行った旅行で、泊まった場所。二人でバイトしてお金を貯めて、親に内緒で行った旅行。
 また行きたいね──その言葉すら、いえずにいたのに。
「ねえ、智也」
 もう決して応えることのない、最愛のひとに言葉をかける。
 想われていたのだと、いまさら知ってももう遅いのに。
「ねえ、智也」
 もう一度。
 芳恵は携帯電話を床に置いた。腐臭を放つ胸に頬をうずめ、冷たい背中に腕をまわし、抱きしめた。かさかさに乾いた唇に、自らのそれを重ねる。
「ねえ、智也」
 ねえ、とくり返す。
 返事などない。
 返事をする機能は、自分が奪った。
 寂しかったから。いっしょにいたかったから。こっちを見て欲しかったから。
 愛して欲しかったから。
「ねえ、智也」
 芳恵の目から、はじめて涙がこぼれた。
 芳恵は、立ち上がった。
 愛するひとの隣に放ってあった、赤黒い刃物を手に取る。
 もう、押し込めるのはよそう。
 思ったことは、ぜんぶ口にしよう。
 愛してると、大好きと、いっしょにいたいとごめんなさいと、ぜんぶを伝えよう。
 芳恵は、微笑んだ。

「ねえ、すぐに、会いに行くね」




劇場『すぽっと』にて、『散る散る花びらの下に』というお題をいただいて執筆。