愛を定める薬 

 手に入れてしまった。
 インターネットで話題になっている、惚れ薬。
 真偽のほどはわからない。だが、効果があったという意見が大半を占めている。
 チヒロは、小瓶をバッグの奥深くにしまいこんだ。
 自分が、この薬に期待しているのかどうかはわからない。それでも、届いたときには胸が震えた。
『愛を定める薬』──ラベルには、そんな名称が書かれている。
 バッグのなかで、携帯電話が軽快な音をたてた。必要以上にどきりとして、取り出す。メールだ。「少し遅れる」──あまりにも簡潔なメッセージ。
 チヒロは時計を見た。遅らせるほどでもない。どこかで時間をつぶせばいいだろう。
 部屋を出ようというところで、すっかり埃をかぶっているジュエリーケースが目に留まった。ほんの少しの興味で、手をのばす。あたりまえのように、二つ並んだ結婚指輪。自分だけするのもバカバカしいと、最初は意地だったはずなのに、いまでは存在すら忘れてしまっていた。
 そのままふたをしめ、元の場所に戻す。きっと、以前のようなまぶしい気持ちでこのリングに指を通すことは、もうない。
 チヒロは、ハイヒールをはくと、玄関戸を押し開けた。

 
 ここのところずっと寒い日が続いていたのに、今日に限って暖かい。桜も咲き乱れ、おそらく今週末がピークだろう。娘と花見に来るのもいいかもしれない──しかし、夫にべったりのあの子は、自分と花見に行くよりも家でゲームをする方を選択するだろうか。そんなことをとりとめなく考えながら、チヒロは公園脇の道をゆったりと歩いていった。
 幸せでないわけでは、ない。
 ひどく満たされている立場にある。それは充分に自覚している。
 なのに乾くのは、なぜなのだろう。
 地下鉄に乗り、二度乗り換え、都会に出る。目的もなく百貨店を歩く気にはなれず、駅前のカフェに入った。
 コーヒーを注文し、バッグのなかの小瓶をそっと確かめる。しかし、出すことはせず、代わりに本を開いた。
 まだ、時間はある。
 決断までの、時間だ。
 これをどう使うのか。本当は、購入ボタンを押すときにはもう決めていた。けれど、思い切れずにいる。
「あれ、チヒロさん」
 かけられた声に、息が止まりそうになった。
 鼓動がはやるのを自覚しつつ、呼吸を整える。胸を押さえるようなことはしない。
 顔を上げると、見知った男性が立っていた。
 大学時代の後輩だ。サークルの集まりで、いまでも年に数回は会っている。
 責任感が強く人望も厚い、いまでは大手銀行に勤務している彼は、チヒロにとってはまったくまぶしい存在だった。淡い恋心のようなもの──それが錯覚だろうということも自覚していたが──を抱いたこともある。
 手の届くところにいて、しかしあまりにも遠い存在。
 触れたいと願うことなど、愚かだ。
「偶然ね。デート?」
 そんな問いかけをしてしまう自分を、嫌悪する。彼は困ったように笑って、チヒロの向かい側に腰掛けた。
「残念、そんな相手いないですよ。ちょっと仕事で人に会うんですが、遅れるっていうんで、ぶらぶらと」
「そう」
 不自然なほほえみになってはいないだろうか。頬の筋肉が緊張しているのを感じた。
 なぜ、今日、このタイミングで、彼に会ってしまったのだろう。意識が目の前の男性に吸い寄せられながらも、傍らのバッグから離れない。
「チヒロさんこそ、オシャレして、どうしたんですか。デートですか?」
「デートする相手を、探してるとこ」
「また」
 彼が笑う。なんてまぶしい笑顔。
 きっと彼は知らないのだ。結婚するということ、その先に待っていること。若くして結婚してしまったいまの自分が、なにを考え、どうやって日々を過ごしているのかということ。
 そのすがすがしいまでの笑顔は、足を踏み入れていないもののそれに思えた。
 チヒロは、どこか寂しさを覚えながら、もう一度ほほえむ。彼ではない。彼とでは、また、同じ道を歩むだけだ。
 これは、自分の問題なのだ。
「悪い、遅れた」
 不意に、低い、抑揚のない声が割り込んでくる。わざわざ確認するまでもない。チヒロはちらりともそちらを見なかった。
「あ、こんにちは。なんだ、やっぱりデートなんじゃないですか」
 彼はすぐに立ち上がり、席を譲った。その姿までもが初々しい。チヒロは思わず、笑みをこぼした。
「せっかくの浮気現場なんだから、もうちょっと慌ててよ」
「ち、ちょっと、やめてくださいよ! 違いますからね、マジで!」
 全力で否定することもないだろうとは思いつつも、不快になることはなかった。彼は慌てて鞄を持ち、頭を下げてカフェから出ていく。
 スーツ姿の夫は、咳払いをした。不機嫌そうな顔をするわけでもなく、あたりまえのように、イスに座る。
「珍しいな、わざわざ待ち合わせてまで、映画なんて」
「だってパパ、今日は仕事早く終わるっていってたじゃない。いいでしょ、たまには」
 いつからか、パパと呼ぶようになった。名前はおろか、あなた、などと呼ぶ気にはとうていなれなかった。これも意地かもしれないと思うと、いっそ情けない。けれど、それにすがることしか、できない。
「千夏は?」
「お母さんとこよ。そういってあったでしょ」
「ああ」
 聞いていなかったことなど知っている。しかし今更、チヒロがそのことについてなにか感想を抱くことはない。
「じゃあ、行くか」
 ここで時間を過ごすつもりはないらしい。なにも口にせず、早々に立ち上がる夫を、チヒロは呼び止めた。
「待って。そこに、座って」
 いぶかしげに、眉をひそめられる。それでもかまわなかった。チヒロはバッグから小瓶を取り出す。
 迷う必要は、なかった。
「ちょっと待ってね」
 ふたを開ける。淡い桃色の液体を、一気に飲み干した。
 目を閉じて、数秒。意を決して、開ける。
 怪訝そうな顔をした夫の姿を、じっと、見た。
「なにを飲んだんだ?」
 知るはずもない。ただ、不思議そうだ。
 チヒロは笑う。
「なんでもないのよ」
 そうして、本をバッグに入れ、立ち上がる。
 彼の腕に手をかけ、カフェをあとにした。