莉啓看病大作戦
その明らかにおかしな様子を、悠良と怜は並んで見守っていた。
仕事で訪れた、アレスの港町。
常夏で知られるこの町は、バカンスの地としても有名で、大陸中から裕福な人々が集まってくるほどだ。
多くの宿、豊富な食材、旅人に慣れた住人たち。
旅を続ける彼らにとって、これほど過ごしやすい条件も珍しい。
の、だが。
彼らの中で約一名、常に鉄壁(対悠良を除く)であるはずの莉啓だけが、見るからに異常だった。
「朝食だ」
いつものように宿の厨房を借りて、悠良のために作り上げた食事を、テーブルに並べていく。
その手が、揺らいでいる。
皿に盛られた朝食も、不自然きわまりない。中央にあるのは恐らく卵焼きなのだろうが、所々に見えるカルシウムの塊らしき白い物体が、トッピングとも思えない。
目はうつろ。
顔は真っ赤。
あろうことか、エプロンは前後逆だ。
悠良と怜は、無言で顔を見合わせた。
これは、おかしい。
「……啓ちゃんさあ」
まさか気づいていないのだろうか──そんなことを思いつつ、怜が声をかける。
莉啓が怜を見た。その顔が、強ばった。
「貴様、いつから二人に?」
「いやいやいや、一人だから。二人に見えてるんだとしたら、こりゃもうそうとうやばいね」
「世迷いごとを」
鼻で笑い飛ばす。
いただきます、という気にもならず、悠良は朝食らしきトレイをついと怜側に押しやると、莉啓を見上げた。
「あなた、調子悪いんじゃないの。顔色が悪いわ。動きも奇怪」
「ちょっと悠良ちゃん、まさかこれって俺が食べるの」
「光栄でしょう」
「光栄です」
怜はおとなしく食べ始める。口のなかがじゃりじゃりした。カルシウム万歳。
悠良のための朝食に手をつけているというのに、莉啓が怒りの包丁を振り下ろす気配もない。いよいよ心配になり、悠良は立ち上がった。
そっと、莉啓の額に手を当てる。
「燃えてるわよ」
「……燃えてる、だと?」
「火気を近づけたら炎上するんじゃないかしら」
なにそのやりとり、冗談? ──いいたいことはあったが、味はそれなりにおいしい食事に専念しつつ、怜は考えた。
相棒の、この状況。
非常に珍しいことではあるが、考えられるのは一つだ。
「風邪だね、啓ちゃん」
ズバリと告げた。
莉啓と悠良の驚いたような目が、怜を射抜く。
「馬鹿しか引かないといわれている、あの、夏風邪?」
悪気はないのだろうが、悠良が追い打ちをかける。
しかし莉啓はくじけなかった。
「俺が夏風邪を引いたということは、その説は間違っていたということか」
「あ、そっちなんだ」
「あたりまえだ。貴様ならともかく、俺が馬鹿などどいうことがあるわけ、が……な──……」
がすん、ごとん、と音が続いた。
棒きれが倒れるように傾いた莉啓が、木のテーブルの端で頭をぶつけ、そのまま床まで倒れ込んだ。二段階打撃。
「莉啓、大丈夫かしら」
「……そう思うならさ、避けずに支えてあげれば良かったんじゃないの、悠良ちゃん」
「あなたがやろうと思えば支えられたでしょう。女性の力では無理があるわ」
ご一行の炎の料理人、莉啓。
常夏の町にて、まさかの貴婦人失神だった。
*
「さあ、どうしようかー」
莉啓を客室に寝かせ、二人は隣の部屋で作戦会議を開いていた。
議題、莉啓の病状の改善と今後の食生活について。
「病気なんだから、薬よね。どうすればいいかしら」
「どうすればいいと思う?」
「……失礼ね。薬が調合するものだってことぐらい知っているわ」
「調合する気かよ」
怜は頭を抱えた。やらせてみるのもおもしろそうだが、善意で毒薬を作り上げかねない。
いままでは悠良が少しでも不調を訴えれば、どんな場合にでも莉啓が迅速に薬を差しだしたものだ。彼がどうやってそれを調達してきているか、彼女自身は知らないのだろう。
町の規模にもよるが、大抵はどこにでも薬屋ぐらいはあるものだ。実際のところ、あの超人は薬の調合でさえ覚え始めているらしいが──それが悠良のためであることはいうまでもない。
「まあ、たぶん疲れからくる風邪だろうから、栄養のあるご飯あげればいいんじゃないの、とりあえず。薬は……ほら、高いじゃん」
「栄養のある料理なんて、どこのお店に行けば出してくれるかしら」
「手作りっていう発想はないかなー。悠良ちゃんはさ、もうちょっと自分であれこれやった方がいいよ。啓ちゃん甘やかしすぎだもんな。そんなんじゃお嫁に行けないよ」
不快そうに、悠良は眉根を寄せた。彼女自身、自分が莉啓に甘やかされていることも、莉啓が異様なまでに過保護であることも知っているのだ。一時期はそれが嫌で、反抗期になったものだ。
怜のいうことは正しい。正しいからこそ、あまり認めたくない。
「……料理なんて、したことないわ」
「いい機会だから、俺が教えるよ。多少はできるから。愛情込めて料理作れば、啓ちゃんの場合、風邪なんて一発で吹っ飛ぶでしょ」
「ならあなたが作ればいいじゃないの」
ズバリと、悠良がいいはなった。
いつもの二割増しで目が冷たい。お嫁に行けない発言を根に持っているのだろう。
「なんで俺が啓ちゃんのために料理! ふだんのご飯すら俺はもらえてないのに!」
魂の叫び。しかし、悠良はひるまなかった。
「それでもなんだかんだいってちゃんと食べてるでしょう。毎回のあのやりとりは、あなたたちなりのコミュニケーションなんじゃないの?」
「そんな馬鹿な話あるかぁ! なにその遠回り! あいつは本気で俺にはくれる気ないんだよ! 俺は日々の食事を必死で確保してんの!」
「本当はちゃんと仲がいいの、知ってるわよ。私よりもずっと長い付き合いなんでしょう。あなたが作るべきだわ」
「ちょ、ちょっと落ち着こうよ、悠良ちゃん。なんか絶対勘違いしてるよ」
「莉啓のこと、愛してないの?」
「愛してねーよ!」
そうよね、と悠良は引き下がった。ごく真剣な口調だったが、どうやら冗談だったらしい。手強い、と怜は嫌な汗を拭う。
「お困りのようだね」
不意に、声が響いた。
外から流れ込む旋律。緑の影。
長い髪をなびかせた長身の男性が、ふわりと宿の窓から降り立った。
翠華だ。
「困ってない」
「困ってないわ」
怜と悠良の声が重なった。言外に帰れと告げる。
翠華は大仰に肩をすくめてみせた。
「こんなイベントに僕を呼ばないなんてどうかしてるよ。思わずかけつけてきちゃったじゃないか」
「翠華、あなたさては怜のことストーキングしてるわね。タイミング良すぎるわ」
「悠良嬢には話しかけてないよーだ。ぶっぶーっ」
す、っと悠良が目を細める。怜は頭を抱えた。
「おまえ来るとややこしいから帰れよ。いまちょっとそんな余裕ないから」
「陰険術師が風邪でぶっ倒れたんでしょ? 相棒交替の大チャンスじゃないか」
「つーかおまえ、どこから聞いてたんだよ」
怜の完全に冷たい対応に、翠華はしょんぼりと肩を落とした。目元に手を当てて、よよよと泣き崩れる。
「そんな……! 僕はただ、たまたま寄った宿で陰険術師が息も絶え絶えで寝てたから、額に肉って書いてあげただけなのに……。ついでにできることあれば手伝おうと、善意の塊の行動なのに……!」
「うわー、おまえそれ、あとで啓ちゃんに食材にされるぞ」
「でもちょっと見てみたいわ。肉」
善意の片鱗も見えないが、彼にしてみれば善意の塊ということらしい。もし、もし万が一、莉啓の代わりに翠華が一行に加わったとしたら──悠良は想像してみた。
すぐにやめた。悪夢だ。
「でさ、話聞いてたんだけど。悠良嬢が甘やかされてるってのはそのとおりだと思うんだ。お嫁に行けないのも間違いないね。だってほら、かわいげないじゃん」
悠良の眼孔が鋭く光る。怜も咳払いで援護。
意に介した様子もなく、翠華は続けた。
「そんな悠良嬢に、僕の怜が料理教えるとかってもったいな……じゃない、それこそ甘やかすばっかりでしょう。やっぱり、そこは悠良嬢が一人で頑張らないと。陰険術師にいつも一から十まで世話させてるんだから、それぐらいやらなきゃね。それはもう、ひととしての最低ラインっていうか、プライドっていうか、そういう問題だよね」
あ、と怜は思った。
そんないい方をしてしまっては。
悠良は確実に、ノる。
「……わかったわ」
赤い髪をうしろに払い、悠良は毅然とした態度で頷いた。
「私がやるわ、ぜんぶ。怜、口出ししたら承知しないわよ」
「……はーい」
こうなってしまっては、口出しなどできるはずもない。怜はおとなしく同意する。
実におもしろそうに笑む翠華と、何やら燃える悠良とを眺めつつ、怜は心の中で小さくつぶやいていた。
オチが見えたな、と。
*
莉啓は、夢を見ていた。
それは恐ろしい夢だった。
赤い髪の少女が、まっすぐにこちらを見ている。
ああ、そろそろ食事の時間だ、準備をしなくては──
どうしたんだ、体調が悪いのか、すぐに薬の用意を──
莉啓の挙動一つ一つに、少女の瞳が冷めていく。
少女は、形の良い眉をひそめるようにして、口を開けた。
──あなたって、ぜんぜん使えないのね。
その口が、残酷な台詞を吐き出した。
──ていうか、ウザイ。
笑むようにして、一言、告げる。衝撃を受ける莉啓にはかまわず、更に冷淡に目を細めた。
──莉啓なんて大嫌い。怜の方がよっぽどかっこいいわ。といっても私なんかに怜の魅力なんてわからないんだけど。それでも陰険術師よりはよっぽどマシよ。
「──それにあなたっていちいち真面目っていうか固いっていうか融通が利かないのよね……」
「こらこらこら」
うう、うう、とうなされる莉啓の耳元で囁き続けていた翠華の首根っこを、怜がひっつかんだ。そのまま連行していく。
なおもいい続けようとしていた翠華は、不満全開で唇を曲げた。
「止めないでよ、怜。いいチャンスなんだからさ」
「なんのチャンスだよ。一応病人なんだから、優しく──するのは無理でも、嫌がらせはやめとけって」
「えー。つまんないー」
なおもぶーたれる翠華を、怜は一瞥した。それだけで、翠華はぴたりと黙る。
怜にしてみても、特に莉啓の肩を持つとか、そういうつもりはない。ないのだが、額に肉と書かれて冷や汗びっしょりでうなされる相棒の姿に、さすがに涙を禁じ得ないのだ。
しかも、この後さらなる試練が待ち受けているのは明白だ。
宿の厨房は、いまは悠良が占拠しているのだから。
想像したら、本気で泣けてきた。
あまりにもかわいそうだ。
「……なんでそんな心配なの。悠良嬢、作ったことないなら、料理上手か下手かもわからないじゃん。料理初心者の料理が必ずまずいってわけでもないのにさ」
怜の思考を察したのだろう。少しいいにくそうではあったが、翠華がぶつぶつとつぶやく。
怜は首を左右に振った。彼には、ある確信があった。
「悠良ちゃんがさー、例えばレシピとか見て作るタイプだと思う? 変なとこでおおざっぱだから、きっとフィーリングで作ってるよ、いまごろ」
「え、マジで」
翠華は想像してみた。
それは確かに……ちょっとやりすぎたかもしれない。
「できたわ」
凛とした声と同時に、ガチャリと戸が開かれた。
銀のトレイいっぱいに、何やら料理の数々を乗せて、エプロン姿の悠良が現れた。
「食材屋で、栄養価の高いものばかりを買って作ったの。きっと元気になるはずよ」
彼女は誇らしげだった。
怜が慌ててベッドの脇にテーブルを移動させる。悠良はそこにトレイを置くと、ふう、と髪をかき上げた。
怜と翠華は、トレイに並べられているそれらを、見た。
そして、目を逸らした。
このときばかりは、翠華も思った。ゴメンね、莉啓。
「莉啓、莉啓──起きて。栄養のある食事を用意したわ」
眠る莉啓の身体を、そっと揺らす。莉啓はうっすらと目を開け、最初に飛び込んできたのがエプロン姿の悠良であったことに驚いたようだった。目を数回またたかせ、上半身を起こす。
「しょく、じ?」
まだ寝ぼけているのだろうか。状況が飲み込めていないようだ。
「啓ちゃん、熱だしてぶっ倒れたんだよ。日頃お世話になってるからってことで、悠良ちゃんが啓ちゃんのために手料理したんだって」
「それ食べて、元気にな……──るといいよね」
怜と翠華が口々にいう。莉啓は眉をひそめた。
「なぜ翠華がここに……というか、貴様ら、なぜこっちを見て話さないんだ」
理由は複数あったが、二人は答えない。肉って見たら笑いそうだからとか、後ろめたくて目を合わせられないからとか、うっかり泣きそうだからとか、正直にいえるはずもない。
「さ、莉啓。どうぞ」
「悠良……本当に、悠良が、作ったのか?」
「そうよ。きっと元気になるわ」
莉啓の目頭が熱くなった。
尽くしてきて何年経つだろう。まさかこんなサプライズが待っていようとは。
こみ上げてくる感動をぐっと抑え、銀のトレイに視線を移す。
絶句した。
「どうかしたの?」
「どうか……し、いや、どうもしないが」
どうかしたしない以前の問題だった。
青い。
料理のすべてが、なぜか青い。
何を使えば青くなるのか、莉啓には見当もつかない。
しかし、事実、とにかく青いのだ。
まさか、こんなサプライズが待っていようとは。
「さ、どうぞ」
微笑みすら浮かべて、悠良がナイフとフォークを莉啓に手渡す。
莉啓は、冷や汗すら根性で体内に押し戻した。
満面の笑みで、腹の底から、告げた。
「──いただきます」
その後、ただの風邪であったはずの莉啓の症状は重症にまで発展。
翠華はさっさと姿を消し、看病に燃える悠良をなだめつつ、結局怜が全身全霊で世話をした。
まさにこのオチが見えていた怜は、なぜあのとき翠華を、または悠良を、それとも莉啓を止められなかったのかと、自分を責めるばかりだったという──
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エラン祭りを開催していただいた際、自ら出展したものです。
お祭りのページに、いただいたイラストもあります。