あいつはやめておけ──
友人Aの言葉が生々しく蘇る。
あいつ、二股三股どころじゃないんだって──
友人Bの言葉までウェルカムした。
結婚するなら、見目は悪くとも、気の利く娘さんにしんさいよ──
もう何年も会っていない祖母の声まで大登場。
しかし、近野ツバメ──二十歳、大学生、歴代彼女ゼロ──は、心に決めていた。
目の前の女性こそ、自分の運命の相手。
いつかきっと、給料三ヶ月分の指輪を渡す相手。
将来、毎日しじみのみそ汁を作って、「ダーリンごはんよ──おはよう、ちゅ。やだ、だぁめ、まずごはんでしょ? やん、だめよ、おみそ汁が冷めちゃう」とかなんとかしてくれちゃったりなんたりする相手。
ツバメの前に笑顔で立つ、坂下ニメ──二十歳、大学生、現在彼氏複数との噂──彼女こそ、未来のお嫁さんに違いないのだと。
ニ メ ツ バ メ
「ごめんね、待った?」
大きな目でツバメを見上げ、ニメは実にもうしわけなさそうにいった。ハンドバッグをうしろに持ち、首をかしげて上目遣い。
かわいい、とツバメは思った。
大学では見ない服装だ。
白いコートと、赤いマフラー。茶のブーツ。メイクもいつもより気合いを入れてくれているような気がしないでもない。
「ツバメくん?」
「あ、いや」
はっと我に返り、慌てて首を振る。見とれている場合ではない。ましてや、実際に待ち合わせに来てくれたことに、感動している場合でも。これはれっきとしたデートなのだ。舐められてはいけない。
「ま、待ってないよ、ぜんぜん。だいじょうぶ」
「ほんと? 良かった。ツバメくんって、やさしいね」
頬を赤らめて、ニメが笑う。
それだけで、ツバメはもう死んでもいいとさえ思った。
自分ひとりだけに向けられた笑顔だ。
そう、待ってなどいない。待ち合わせ時刻が十時で、現在すでに十一時をまわってるとか、そんな事実はどうだっていい。ちょっとでも待ち合わせ場所を離れて、その隙にニメが来て帰ってしまったらどうしようという思いから、ずっとトイレを我慢してるとか、そんなこともたいした問題ではない。連絡しようにも、実はメールアドレスも電話番号も知らないのだって、無問題。
笑顔一つで癒されてしまった。
人生万歳。
「ね、どこに行こうか。もう冬休みだし、どこに行っても混んでるかな」
そんなことをいいながら、ニメがツバメの手を握る。あまりにもさりげない動作に、ツバメは度肝を抜かれた。わかってはいたが、明らかに経験値では負けている──どうにかしなくては! このままでは、主導権を持って行かれるぞ!
という思いは一瞬で消えた。ニメが、ツバメの肩に体重を預けるようにして、こつんと頭を当てたのだ。
主導権なぞいらぬ──!
胸中で、ツバメは吠えた。
だからもっと、どんと来い!
「え、映画でも、観る?」
ニメの顔が見られない。しかもどもる。それでも精一杯のツバメの提案に、ニメが顔を上げた。
実はツバメは、十九通りのデートプランを用意していた。どんなことをいわれても、臨機応援に対応できるように。そのすべてを完全に覚えているつもりだったが、手から伝わってくるニメのぬくもりと、ほのかな甘い香りとで、何もかも忘れ去られてしまった。いまとなっては、ツバメの練った十九通りのなかに、「映画」という選択肢があったのかどうかも疑わしい。
「映画かあ」
気のない返事。ニメのなかの目に見えないゲージが急激に減少していくような気がして、ツバメは慌てて声をあげる。
「に、ニメさんが行きたいところがあるなら、どこでも!」
「ほんと?」
ニメは目を輝かせた。ツバメは心の中でこぶしを握る。このまま、ニメの要求を受け入れつつ、主導権を手中に──
「じゃあね、ツバメくんのおうちに行きたいな」
──ツバメの目が飛び出した。
それは完全にない選択肢だった。
初デートで、おうち。
おうちというのは、すなわちホウム。そしてツバメは独り暮らし。
まさかの急展開!
次回を、待て!
「ダメ?」
しかし当然、現実が待ってくれるはずがない。
そして、ニメの上目遣いと懇願のコンボを、断れるはずもない。
「もしろん、大歓迎さ!」
歯すら光らせて、ツバメは安請け合いしていた。
*
「あ、あの、ほんとに散らかってるから。ほんっとに、散らかってるから。ちょっと待ってて」
学生用の安アパートの一階、103のプレートの前で、ツバメは必死に訴えたが、ニメは聞き入れる気などないようだった。いつものツバメくんの部屋が見たいな、という一言で、あっさりツバメ壁は崩れ去る。
ツバメは脳をフル稼働させた。
ここ数日分の食器がすべて残っているはずだ──まあ、それはいいとしよう。
片づけとは無縁なので、足の踏み場もない気がする──それもよしとする。
いかがわしい本とか雑誌とかそういう類のものが、ころんと落ちているのではないか──それは大問題だ。
確実に気まずい空気になる、とツバメは予知した。降水確率百パーセントをも凌駕する確かな未来。気まずい空気のちフられ。
そんなことをしても無駄だとはわかっていたが、わざと時間をかけて穴に鍵を差し込む。かちゃり、とあっさりアンロックの音。ノブを回して扉を開けると、ニメが率先して玄関に足を踏み入れた。
「おじゃまします!」
ニメの瞳はなんだか輝いている。反比例するかのように、ツバメの胸中ではマイナス要素が渦巻いていた。初デートに密室に二人きり──ツバメにとってもオイシイ展開には間違いないが、心の準備と物理的な準備がまったく追いついていないのだ。
「ふふ、なんか、いいね。独り暮らしって感じ」
「そ、そうかな」
独り暮らしって感じがどういう感じかわからないながらも、適当に相づちを返して、ツバメは超高速で室内を確認した。
散らかっている。が、想像よりはまし。一番の問題の、いかがわしいヤツらも姿を消している。昔からの習性で、ベッド下に収納されているに違いない。セーフ。
「もっと、ポスターとか貼ってあるのかと思った。──あ、このCD、わたしも持ってる」
ニメは自由に散策していく。ツバメはドギマギしながらも、とりあえず茶ぐらい出すべきだろうと思い立った。冷蔵庫に、ペットボトルの緑茶があったはずだ。とりあえずそれを出して……菓子は何かあったかな──等々、脳内フル回転。
「わ、スゴイ! レトロな時計。これって、鳩時計?」
「あ、それは……親が勝手に送りつけてきて。一時間ごとに鳩が出てくるから、ちょっとうるさいんだけど」
「へえ、見てみたいなあ」
無邪気な笑い声。これは、いい感じなんじゃないだろうか、とツバメは自信を持ち始めた。いわばホーム戦だ。主導権、我にアリ。
心の中で鼻歌を歌いながら、ツバメはジャケットを棚の上に放った。冷蔵庫を開けて、ペットボトルに手を伸ばす。
「あー」
不意に、トーンの違う声がした。
なんだかどきりとして、ニメの方を見やる。あろうことか、ニメは床に膝をつき、ベッドの下をのぞいていた。
「ちょ、そこは──」
「オトコノコのヒミツ、発見」
にっこりと笑ったニメの手には、A4サイズの薄い雑誌。
いわゆるいかがわしい系統の。
ツバメの脳が一気に沸騰した。わけのわからない汗が噴き出す。表紙の上では、裸の女性が、艶めかしいポーズでツバメを誘惑している。今日は相手してくれないの? 相手などできぬ! ──しかし胸中のやりとりはなんの意味も成さない。
「こういうの、読んでるんだ」
「だ、ダメだって!」
もはや茶どころではなくなった。ツバメは乱暴に冷蔵庫を閉めて、ベッドに急行する。
ツバメの慌てぶりなど意に介さず、ニメはマイペースで、雑誌を開きながらベッドに腰を下ろした。まじまじと、中身を物色する。
「おもしろいもんじゃないから!」
「そうかな。ちょっと、興味あるかも。ね、一緒に見よう?」
まさかの提案に、ツバメは思わず絶句した。
「い、いっしょにって……」
「ダメ?」
秘技、上目遣い。
断れるはずもなかった。ツバメはロボットのようにぎくしゃくと足を動かし、促されるままにニメの隣に座る。
「ふふ」
甘い息。鼓動が三倍速だ。
見慣れているはずの裸の女性たち──しかし、ニメの手の中にあるというだけで、まったく違うものに見えた。ニメは、無言でページをめくっていく。ツバメはもう、判決を待つ罪人のような気持ちで、一ミリも動けない。
ぱたん、とニメは雑誌を閉じた。
ショートボブの向こう側の表情が見えなくて、ツバメはただ、待つことしかできない。
いよいよ判決だろうか。フケツ! ハレンチ! 信じられない! ──あらゆる語彙が、ツバメの脳に浮かぶ。
「どうしよう」
しかし、ニメの口から出た言葉は、ツバメの予想にないものだった。
震えた、いまにも消えそうな声だ。
「なんだか、変な感じ」
「え、だいじょうぶ?」
ツバメの思考能力は限りなくゼロに近づいていたので、そんな言葉しか出てこない。ニメは雑誌をベッドの上に置くと、恥ずかしそうに胸の前で手を組んだ。
「だいじょうぶじゃないかも」
見つめられ、ツバメは意識がとびそうになった。
目が潤んでいる。頬が赤らんでいる。唇は小さくすぼめられて──
「……どうにか、してくれる?」
──ツバメはとうとう、理性を手放した。
力任せに、ニメを引き寄せた。ニメの唇に、自身のそれを押しつける。ニメがかすかに身じろぎしたが、足りないとばかりに、むりやり舌をねじ込ませた。
温く、柔らかい感触。甘い香り、確かな、ニメのぬくもり。
「ん」
ニメの声に、はっとした。
ツバメは慌てて、ニメの身体を引き離した。
「ご、ごめ……」
「あやまるの?」
ニメが、見上げてくる。その目はどこかとろりとしていて、いままでに見たどのニメよりも艶めかしく、ツバメはせっかく取り戻した理性がまたどこかにいきそうになるのを実感する。
ニメは、白いコートのボタンに手をかけた。ゆっくりとそれを脱ぎ、ブラウスのボタンも外していく。
生唾を飲み込んで、ツバメは映画のワンシーンのような光景に見とれていた。ブラウスの下に、白い下着。素肌はいかにもやわらかそうで、ほんの少し、汗ばんでいる。
四つほどボタンを外したところで、ニメは手を止めた。
「ここがね」
囁くようにして、柔らかい声を舌に乗せる。ツバメの右手を持ち上げて、胸元に誘った。
「へんな、かんじなの」
「こ、こ、ここ?」
ニメがうなずく。ツバメはその感触にぐらぐらと脳を揺らしながら、極力そうっと、手を動かす。
「もっと、下」
「し、下って」
ツバメは、慎重に慎重に、ゆっくりと手を移動させた。
やがて下着の中に手が侵入したが、ニメは何もいってこない。意を決して、もっと奥まで、踏み入れる。
「ひゃん」
ニメの肢体が大きく揺れた。ツバメは急いで手を引いた。
「やん」
「ごめ──」
「でも、手、冷たいかも。ね……お口がいいな」
ツバメの脳裏に落雷が落ちた。
お口がいいな、お口がいいな、お口がいいな──脳内永久リフレイン。
「……ね?」
ツバメは、手を伸ばした。
壊れ物に触るように、白い下着に触れる。
息を飲んで、手前に引いた。決して大きくはないが、形の良い胸が露わになる。鑑賞する余裕などあるはずもなかった。勢いのままに、ツバメはぬくもりの中に顔を押しつけた。
「ふぁ……」
ニメの身体がのけぞる。しかし、もうツバメは引く気などなかった。そのままベッドに倒れ込み、ついばむ。
舌先でそれを転がすと、ニメの口から甘い吐息が漏れた。真っ白に近かった肢体が桃色に染まっていく。ゆっくり、ゆっくり、ツバメはそれを吸い上げる。
「ツ、バメくん」
答えず、短いスカートの下に、手を入れた。下着の線に沿って指を移動させ、布の中心にそっと触れる。
先ほどよりも大きく、ニメの身体がびくりと上下する。
──刹那。
カチリ、と音がした。
ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー
時計から飛び出した鳩が、皮肉なほどに軽快に、きっかり十二回、鳴いた。
「もう、こんな時間」
いままでの流れなど総無視で、ニメは起きあがった。
呆然と開いた口を塞げずにいるツバメをよそに、さっさと着衣の乱れを直す。コートを着て、マフラーを巻いた。
「わたし、これからデートなの」
「…………で、……でぇと?」
ツバメには、何が起こったのかわからない。
ニメには、ツバメの思考を待ってくれる気などないようだった。玄関に直行してブーツに細い足を入れ、ベッドに取り残されたツバメを振り返る。
「わたし、嘘つきだけど──」
目を細め、極上の笑みを浮かべた。
「ツバメくんのこと、好き」
そういって、扉を開けると、あっさりと去っていった。
足音が遠ざかって、やがて消える。
ツバメは、動けなかった。
何をどうすればいいのか、なにひとつわからなかった。
ただ、ひとつだけ、あまりにも大きな疑問が、彼の脳裏に浮かんだ。
浮かんでしまったら、もうそれ以外考えられなくなっていた。
好き、といったあの言葉。
嘘つきだけど、の前置き。
「え、どっち……?」
しかし答えなど、わかるはずもなく。
近野ツバメ、二十歳。
彼の苦労は、まだまだ続く。